感情の落としごと

 十二月二十四日、〝Sia la luce〟は通常営業だ。クリスマスシーズンにおいて、この日のディナータイムが一番の書き入れ時だ。「ジョーんとこでクリスマスパーティーを」とレキは提案したが、オーナーシェフにも経営者としての都合がある。「明日くらいなら都合が付くかもなぁ」世間的にクリスマスは二十五日の午前中までだ。ランチタイムにクリスマス仕様を出すには遅すぎる。それは二十四日の日中にしか通じない。「俺も仕事があるから出席できん」呼ばれてもないのに〝Cherry blossom〟は答える。AI書道家桜屋敷薫としての仕事が、夜遅くまで予定に入っていた。聞かずとも返事を貰ったレキは「そっかぁ」と残念そうに答える。〝S〟の顔見知りを全員呼ぼうとした計画は崩れる。「シャドウ辺りは大丈夫そうじゃないか?」冗談交じりにジョーはいう。「こっちも遅くまで仕事だッ!!」シャドウはキレて返した。片想いを抱いた店長とデートする予定など、入っていない。それが十二月二十四日以前に交わしたやり取りだった。
 クリスマスイブ当日、午後八時。繁忙を極めるディナータイムに、桜屋敷が客と一緒に店へ入ってきた。「ささっ、先生。こちらへ」「えぇ。ありがとうございます」店を贔屓する上客が座ったタイミングを見計らい、南城は予約のカードをテーブルから下げる。「お待ちしておりました。岸本様」温和な人当たりの良い笑みを浮かべる。桜屋敷も人当たりの良い好青年の顔で南城の接客に応じた。事前に準備を万全に整えていても、キッチンは忙しい。手早く料理を仕上げ、早く店に入った順に料理を運ぶ。南城一人で店を回すには大忙しだ。それでも急遽生じる人件費の計算が面倒なので、南城は例年と変わらず一人で乗り切る。桜屋敷もまた、深く笑みを浮かべて高額な商談を成立させる。狸眼鏡の腹は黒い。「詳しいことは、またのちほど」現金の引き渡しは桜屋敷書庵応接室だ。二十二時半にラストオーダーが締め切り、また一組客が帰っていく。客も客で、一人で切り盛りする南城の大変さをわかっている。数分レジで待たされても、穏やかに人当たりがよく謝る南城を目にしては気を許すしかなかった。一人で大変でしょう、仕方ない。と南城の謝罪に対して、口にする。そうして食後のテーブルの片付けを行いながら、また一組、また一組。とうとう最後から二番目の客になりかけたところで、桜屋敷と上客が会計に向かう。「美味しかったよ。南城さん」上客の賞賛に、南城は深く頭を下げる。口元に深く笑みを浮かべた。「恐れ入ります。岸本様」口では謙遜しているものの、閉じた目はなにを思うか。垂れた目尻に真意を隠す南城に、桜屋敷は外向けの笑みを向ける。誰でも好感を向けられていると錯覚する笑みだ。上客を桜屋敷が見送り、間を置かず最後の客が支払いを望む。南城は応じた。オーナーシェフの目算だと、本年度も儲けが出た。テーブルに残る食器を下げる。店の看板を〝OPEN〟から〝CLOSED〟に変えようと考えたそのとき、桜屋敷が店に入ってきた。「はーっ」大きく息を吐き、肩を掴みながら首を鳴らしてる。「本日は営業終了だ」南城が片付けながら突っかかると「あ?」と桜屋敷が視線で威圧する。「いつもの頼む」何食わぬ顔でいつもの特等席に座った。
 最後の客がそこに座っていたので、また拭いてない。南城は積み上げた皿を片手に、桜屋敷のテーブルを台拭きで拭いた。袖に手を入れて腕を組んだ桜屋敷は、微動だにしない。南城はキッチンに入り、皿をシンクに入れた。キッチンカウンターに入り、ワイングラスを取り出す。
「店の片付けが進んだらな」
「おい。どうして二つも」
「俺も飲むんだよ。守銭奴眼鏡」
 返ってきたものに桜屋敷は顔を顰める。ゴリラがどういう風の吹き回しだ。そう文句をいいたそうな顔である。南城はワイングラスをカウンターの上に置くと、店の片付けへ戻った。各テーブルを綺麗に拭き、小さなはたきで椅子の上の汚れを落とす。綺麗にすると、テーブルの端に噛ませるように座面を下にして、食事をする面に椅子を乗せた。他も同じようにする。「まだか」堪え性のない桜屋敷が急かす。「あと掃除が残ってるんだよ。陰険眼鏡」南城は不満を含ませて返した。売り言葉に買い言葉は、クリスマスの前夜にも健在である。
 キリストの生誕を祝う代わりに、本日の労働を労わる酒が注がれる。キリストの血を示す赤いワインではない。深く紫がかった暗い赤色の代わりに、太陽を受けた若草色が滲む薄い黄色の液体が注がれる。香りが味わい深い。「メリークリスマス」南城が茶化してワイングラスを桜屋敷へ傾ける。「馬鹿らしい」桜屋敷は南城の要求を無視し、酒に口を付けた。舌触りも最初の印象も好みである。小さく機嫌が直った。
「つまんねぇヤツだな。せっかくのイブだってのに」
「もう二十五日だ。ボケナス。前なら街に繰り出して女を漁ってただろう」
「漁ってたんじゃない。ナンパだ」
「どちらも同じだろう。飽きてやめたのか?」
「いや? 繰り出そうと思えば繰り出せる」
「阿呆らしい」
「お前が店に残るからな」
「フンッ」
 鼻を鳴らしただけで会話が成り立つ。桜屋敷は揺らすワインを飲み、口に含ませた。余韻も素晴らしい。手頃な値段の割に楽しめる一品だ。「手際が悪かったぞ」客と料理を捌いた手腕にダメ出しをする。「うるせぇ。俺一人でやってるんだよ」そのダメ出しに南城は反発する。それら衝突を行う発言の後には、必ず馴染んだ悪態が付いてくる。「ゴリラ」「すかたん」例年と変わらない。それよりずっと、喧嘩をし合うようになった昔から変わらないやり取りである。「ボケナス」「どてかぼちゃ」悪態の罵り合いは互いに相手を悪く言い合うことで終わらない。ワインの進みが遅い南城と違い、桜屋敷のペースが速い。
「まーたギュウギュウに仕事を詰め込んだのかよ。守銭奴眼鏡」
 首を支えながらカウンターに肘を衝く。カウンターの向こうに立つのではなく、なぜ隣に座るか。それをいつ追及するかタイミングを見計らいつつ、知ったようにいう南城に答える。
「刈り入れ時だ。バカタレ」
 実った果実や豊作物は、適した時期に刈り入れなければいけない。その時期がたまたま、本日に重なっただけだ。桜屋敷はグイッと酒を喉に入れる。酒を飲むスピードの速さが、桜屋敷の過労を物語っていた。
「倒れてもしらねぇぞ。陰険眼鏡」
 悪態を混ぜながらも心配を口にする。
「余計なお世話だ。筋肉ゴリラ。俺にはカーラがいる」
 桜屋敷は南城と違い、自信に溢れている。胸を張って、愛機へ向ける信頼性を語った。
「俺になにかあれば、すぐ病院へ運ぶよう設定している」
「愛抱夢のラブハックを食らったとき、全然救急車なんて来なかっただろ」
「あれは愛抱夢と大切なビーフの時だからな。予め設定をオフにしていた」
「こじつけてんじゃねぇよ。こじつけ眼鏡」
「愛抱夢とビーフした嫉妬か? 負け犬ゴリラ」
「違ぇよ」
 追突しかけた額を自ら退き、南城は一気に酒を煽る。ワイングラスに残る大量の一口が、一斉に南城の喉を通った。カッと身体に熱が灯る。急なアルコールで酸素を運ぶ赤血球が驚いた。自ら退いた南城を、桜屋敷は不思議そうに眺める。酒を飲みスピードが入れ替わった。
「お前に倒れられても面白くもねぇからだ。すかたん」
 手酌で酒を継ぎ足す。ワイングラスに注ぐ量を無視している。香りを楽しむことなく、グラスの半分まで飲み干した。
「笑って手を叩くの間違いじゃないのか。筋肉ゴリラ」
 桜屋敷はやり取りを覚えている。イタリアのバーで南城は、こう口にした。人工知能の構築に徹夜を続ける桜屋敷に口角を上げ「倒れたら手を叩いて笑ってやる」と伝えたのである。あれは南城なりの発破の掛け方だ。まさか、あれが今となって覆されるとは思わない。桜屋敷は軽い一口を飲む。
「あぁ、笑ってやるとも。お前の意識が戻ったときにな」
「もしや、お前。酔ってるだろ」
「酔っ払いでなきゃ、口にできないって?」
「素面でも信じられんがな」
「お前のそういうところがムカつくぜ」
「俺もお前のナンパ癖が理解できん」
「お互い様だろ。ロボキチ」
「だったらわざわざ話に出すな。タラシゴリラ」
 険悪な空気になり、一気にグラスに残る酒を飲む。タイミングも同じだ。先にグラスを置いた桜屋敷が口火を切る。「真似するな。ぼんくら」南城もすかさずいう。「真似したのはそっちだ! すかたん!!」子どもみたいなケチの付け方だ。二十代の後半まで生きた大人、ここは冷静になるだろう。しかし桜屋敷の火蓋がカチッと落とされ、反射的に噛みついた。「俺は真似してない!」近付いた桜屋敷に南城は同じく返す。「お前が始めたんだろ!!」頭突きする桜屋敷に負けじと頭突きをし返した。額で衝突事故が起こる。「なんだと!?」桜屋敷が声を荒げた。「やるか?」南城は額の衝突事故を起こしたまま、敵意を露わにし口角を上げる。頬に青筋を浮かばせながらも、不敵な笑みだ。「望むところだ」こちらも頬に青筋を浮かばせながらも、不敵な笑みである。
 咄嗟に離れ、勝負の内容を口にする。やはり桜屋敷に有利なものだ。南城は地団駄の代わりにカウンターのテーブルを叩く。あのときと違い、提供する料理を置く天板ではなく、客が食事をするテーブルだ。当然、グラスが揺れる。「おい! 瓶が割れたらどうする!? 馬鹿ゴリラ!!」「俺が仕入れたもんだから関係ねぇだろ!! ドケチ眼鏡! タダで酒を飲みやがって」「俺も持ってきているだろう」「ほんのたまにな!!」しれっと開き直る桜屋敷に、南城はムキになって返す。こういうところは昔から本当変わらない。例え地元を離れて暫く別の地で暮らすことになっても、桜屋敷のそういうところは変わっていなかった。
「クソッ」
 南城は小さく悪態を吐き、首を支えた手で米神を押さえる。頭を悩ませる南城と違って、桜屋敷は悠々過ごした。
「おい。つまみ」
「俺はお前のサーヴァントじゃねぇ」
「ほう、面白い」
「おい。余計なことを考えるなよ? 陰険眼鏡」
「チッ。合意を取れば問題ないだろう」
「酷い目に遭うのはこっちなんだよ! 守銭奴眼鏡!!
「お前の筋肉は飾りか? 原始人」
「鍛えれば鍛えるほど弱くなるじゃねぇか!! ふざけんな!」
「腰の筋肉という話だ。ボケナス」
「どっちだって同じなんだよ。メカキチ!!
 桜屋敷に中指を立てる勢いで南城は言い返した。本日とて仲が悪い。犬猿の仲は健在だ。幼馴染として相手の悪態を飽きることなく言い合う。クリスマスを祝うショートケーキのように甘い時間は、まだ来ない。甘ったるい生クリームの到着は遅れていた。互いに互いの襟首を掴み合う。取っ組み合いを始める頃に、二人して床に倒れ込んだ。それでも止めるものはいないので、喧嘩を続ける。息切れする頃に、ようやく子どもの喧嘩が終わった。
「ったく。せっかくのクリスマスが台無しだぜ」
「色ボケしか頭にない癖に、なにをいう」
「理想のクリスマス像くらいあるわ! でっかいモミの木を用意して」
「意味ないだろ」
「あ?」
 幼い頃からこの時期に大きなモミの木を飾り付けた家庭がなにをほざく。南城は敵意を向けた。すれ違う桜屋敷はしれっという。
「そんな楽しむ暇なんてないだろうに。それもわからんとは、全く哀れなゴリラだ」
「は?」
「モミの木よりゴリラでも耐えれる布団かベッドを用意する方が先決だ」
「って、なんつー話をしてやがる!? 腐れ眼鏡!」
「お前が下でいいといっただろう。下でいいと。その仮定に付き合って、話をしてやる」
「は、はぁ?」
「筋肉ゴリラに見合う寝具が見つからん」
 キリストの生誕前夜祭に、なんて爆弾発言をするのか。発言が出た裏を理解した南城は、項垂れるようにテーブルへ突っ伏した。カウンターの角と額がかち合う。それ以上に深く目を覆うように、額を押さえていた。まさか終わらされたと思った話が続いているとは思わなかった。感情と理性が正反対に飛び交い衝突を繰り返す内情を、まだ南城は落とし込めていない。悔しそうに歯を噛み締め、耳まで赤くする熱に項垂れるだけだ。桜屋敷はなに食わぬ顔で、ワインを自身の空のグラスに傾ける。
 ワインの瓶は、既に空だった。一滴も零れない。「む。空になったか」「そーかよ」「代わりを出せ」「肝硬変になっても知らねぇぞ」アルコールの一気飲みは危険である。口ではそういいつつ、今は酒を出したくない。期待を抱かせる突然の発言に、南城は気の落ち着けどころを探し出せないのであった。