偏らない誕生日

 三月二七日に一番乗りした当日の夜、南城虎次郎は後悔をしていた。翌日の午前中はいつも通りだろう。午後のレキたちの学校が終わる頃には前触れもなくクラッカーを鳴らされるかもしれない。少なくとも、桜屋敷にとっては予定にない。一度あることは二度ある──と謂えども、桜屋敷は「次はないだろう」と口に出している。内心では今年もあるだろうと期待しているが、態度が素直でないヤツだ。例えカーラが数パーセントの可能性はあると説明しても、桜屋敷はカーラに対して笑うのみだろう。同じことを南城が口にしたとして、鼻であしらうだけだ。しかし結果は変わらない。桜屋敷自身が愛する人工知能の助言とはいえ、人工知能のプログラミングをした当人は予定に組み込まない。そういう性格を逆手に取った上での、揶揄いだった。「誕生日プレゼントは俺、っていうのはどうだ?」頭に浮かんだとはいえ、実際口に出すと笑わざるを得ない。言葉にした自分への可笑しさで、南城は軽く笑う。「そうだな。受け取ってやらんでもない」寝耳に水ということはこのことだ。就寝中、耳元に水滴を落とされて跳び起きたときの衝撃が、南城を襲う。絶対にあり得ないだろうと切り捨てたことが現実に起こると、人間は咄嗟の判断が遅れる。ポカンと固まる南城を他所に、桜屋敷はグラスに残る最後のワインを飲む。
 その後、南城の耳を引っ張り、自宅へ連れて帰った。
 こうして今がある。南城は気怠い体を抱えて小さく後悔をした。当の南城の尻を引っ叩き急かせて美味しくいただいた桜屋敷は、反対側で寝ている。しかも当の南城に背を向けてだ。全くもって冷たいヤツである。南城は自分の肩を擦る。尻も腰も多少は覚悟していたが、首や肩は覚悟の範疇になかった。恋人同士の甘いじゃれ合いでもなく、殴り合いの喧嘩の延長である。でなければ、小さな瘡蓋のような感触は指の腹に存在しない。
(このクソ眼鏡)
 スケーターたちが集うクレイジーロックで開かれる〝S〟に顔を出すことも、難しくなる。南城に自慢の筋肉を隠す選択は存在しなかった。「はぁ」と深い溜息が出る。〝S〟で滑ることと世間に開かれた場所で滑ることは大いに違う。生まれた布団の隙間で冷たい空気が入ったからか。穏やかな寝息を立てた桜屋敷の肩が揺れた。
 不躾に布団を自分の方へ寄せ、寝返りを打つ。咄嗟に南城は離れる端を掴んだ。
「寒い」
 怒りを孕んだ鋭い視線が、放せと南城に水面下で伝える。負けじと南城も布団を掴む手に力を籠めた。
「客人はもてなせ。腐れ眼鏡」
「なに? 檻の中に戻るだと?」
「誰もんなこといってねぇよ!!
 懐疑的に眉を顰める桜屋敷に南城は怒る。反射的に体を起こし、強く拳を敷布団に叩き付けた。「畳が凹むから止めろ」迷惑であると明示する態度に、南城はますます怒りを抱いた。
 軽く体を起こした桜屋敷は、南城が拳を打ち付けた箇所を擦る。
「よし。敷布団と畳に異常はないようだな」
「少しは人のことも気遣え。ロボキチ」
「ゴリラを気遣う余地などどこにある?」
「なに?」
「第一、そっちが俺にやるといってきたんだ。ならば俺が好きに扱っても問題はない。当然のことだろう」
「どこがだッ!! 例え『プレゼントは私』みたいなことをいわれても、やるからには許可を取るのが当然だろ」
「女みたいに喋るな!! 気色悪い! お前の気持ち悪い演技で、鳥肌が立ったぞ!?
「知るか! 俺だったら許可を取る」
「俺だって許可を取るわ。馬鹿ゴリラ」
「じゃぁ、なんで俺には取らなかったんだよ? ドケチ眼鏡!! ケチな男はモテないぜ?」
「俺はお前より金を持ってる。ゴリラが不相応に人間様の扱いを求めるな。原始人!!
「気前よく使わなきゃ意味ねぇんだよ。腹黒眼鏡! 俺は現代人だから、憲法の人権は適応される」
「ゴリラにも動物愛護法は適応されるだろ」
「じゃぁ噛むな!」
 悪態を吐き合う最中に話が戻る。スタート地点に帰った話題に、桜屋敷は舌打ちをした。明らかに話を逸らしたかったと見える。南城はわなわなと震えた。頬杖で寛ぐ桜屋敷の肘を、強く拳で突いてやろうかという敵意さえ湧き起こる。
「お前のせいで、暫く〝S〟にも出せない身体からだにされたんだ。責任くらい感じろ」
「散々女と遊んできたツケが返ってきただけだろう」
「人が話しているときに髪の毛先を気にするなッ!! 女か」
「俺は女以上に髪のケアを気にかけている」
「はいはい」
「虎次郎、お前。キスマークとか好きだった口だろう」
「急に名前で呼ぶんじゃねぇよ。気持ちわりぃ」
「それ代わりだと思え」
「は?」
 無茶にも程がある。桜屋敷は南城と一切目を合わせず、ただただ自分の長い髪の毛先のみを気にしている。空いた手の指先でクルクルと毛先を回し、髪の感触を楽しんだ。聞かされている相手からすれば、相手にされていないと同じである。瞭然たるながら、南城は一切本音だと受け取らない。苛立たしそうに指先で敷布団を叩いた。
「こんなキスマークが存在するかよ」
 批難の口調に怒りが滲み出ている。
「する」
 桜屋敷はからっきし目を合わせることもせず、断言のみした。視線は未だに回転する毛先の先端に向けている。丁寧な世話の甲斐もあって、使い古した絵ブラシのように桃色の毛先は仲違いをしていなかった。
 南城は深く息を吐き、上半身を敷布団から起こす。小さく自分の首を触り、桜屋敷に噛まれた起点を探した。
「あーあ、コックコートでどうにか隠れるレベルだぜ。これ」
「タートルネックでも着てろ」
「俺に合うサイズがねぇんだよ。モヤシ眼鏡」
「筋肉ゴリラだからだろ。アホ」
「やるか?」
「だったらケツの準備をしてこい。脳筋ゴリラ!!
「そっちじゃねぇよ!! この陰険眼鏡!」
 会話のボタンの掛け違いが起きた。「なんだ、違うのか」スーッと桜屋敷から興味の熱が引く。「当たり前だ。ロボキチ」なんでもかんでも要求を満たし応える人工知能と違い、南城は人間である。畳の上に散らかった自分の服を拾い上げ、全裸のまま動く。
「シャワー、借りるぜ」
「石鹸だけを使えよ。絶対」
「俺にもシャンプーを使わせろよ!」
「お前が阿呆みたいに使うからだッ!! ボケナス! 俺の石鹸を貸してやるだけでも有難く思え。ぼんくら」
「だったらリンス。それくらいなら問題ないだろ?」
 占領を終えた布団の中で寝直そうとして、桜屋敷は起き上がる。敷布団はジメッと湿った上に、べちゃべちゃのバスタオルが中に存在する。このままで寝ようとした己を、桜屋敷は微かに後悔した。例え疲れて寝落ちをしても、翌朝以降も使う気になれない。桜屋敷は静かに布団から出て、近くに落ちた自分の下着を履く。それから畳の上に脱ぎ捨てた肌襦袢の袖に軽く腕を通した。
 この間、南城の質問は放置である。
 答えを待つ南城の存在に気付くと、桜屋敷は一瞥だけをやる。
「駄目だ。計算が狂う」
「このドケチが」
 板ガラスを叩き壊すように一片の譲渡すら見せない桜屋敷に、南城は悪態を吐いた。自分の衣服を脇に抱えたまま、南城は桜屋敷に近寄る。大股で、ぐるりと布団を囲うように歩いてだ。問題の布団を跨がず距離を詰める動きに、桜屋敷は不審を拭えない。
「なんだ。近寄るな。暑苦しい」
 ただでさえ骨が折れそうな握力を加えられた後だ。汗ばんだ体を押さえつけられたこともある。分厚い筋肉が多少のクッションになったとはいえ、力が入ったときは硬くなることもある。これ以上南城と肉体的に距離を詰めることは避けたかった。桜屋敷もシャワーを浴びてすっきりとしたいのである。
 顔を顰めて止めようとする桜屋敷に、南城はニヤニヤ笑う。
「いや、なに。誕生日は俺だといった割には、大事なことはいってないと気付いてな?」
「まだその話を引っ張るつもりか。いい加減、鬱陶しいぞ」
「あぁ、もう少し付き合えよ。後でケーキを作ってやるから」
「要らん。俺はもうガキじゃない」
「薫」
 白い手が蠅を追い払うように振ったにも関わらず、南城は距離を詰める。相変わらず顔にニヤニヤとした笑いが張り付いていた。悪戯を企む子ども心が露わに出た態度に、桜屋敷は辟易しつつも、様子を見る。「はぁ」と深く呆れた息を吐き出した。腕を組み、横目で黙って南城の様子を見やる。
 褐色の男は白い耳に大きな手で障子を立て、ひっそり囁き声を立てた。
「ハッピーバースデー」
「気色悪い」
 パシッと乾いた音が褐色の手と白い手の甲とに生まれる。障子を叩き落とされた南城は笑いを噛み殺し、桜屋敷は頬と手の甲に青筋を立てる。怒りは火を見るよりも明らかである。しかしながら、首から肩にかけて強く歯を立てられた身としては、せずにいられない。誕生日を祝いたい気持ちはあるものの、仕返しはしてやりたい。「耳が腐る」と毒を吐いて耳かきを探す桜屋敷に、腹を抱えそうになる。少しショックは受けたものの、そこまで嫌がるかという意表で可笑しさが込み上がった。
「そこまで嫌なのかよ」
 笑いを押し殺す耐久で涙を目に溜めながら、息も絶え絶えに南城は尋ねる。
「お前でなくともお断りだ」
 桜屋敷は耳かきを諦め、自分の小指で囁かれた耳の穴を塞ぐ。ぐりぐりと火照る熱を小指の冷たさで和らげた。片耳だけが疑似的に真空の状態となる。
「お前、耳弱いんだな」
「噛み千切ってやろうか」
「冗談」
 性感帯であろうとなかろうと、この様子では噛んだら最後。桜屋敷は即座に実戦的な殴り合いの喧嘩に意識を切り替える。これは最中に南城の望むことではなかった。それに、最中でなくとも耳へ甘噛みしようと近付けば、距離を詰めた途端に顎へ強烈な一撃が確実に入る。どちらを取っても美味しい実りは頂けない。爆弾が爆発する赤いボタンといえよう。南城は素直に身を引いた。桜屋敷は疑い深く、犬猿の仲である幼馴染の一挙一動を見る。
「まっ、今年も良い年になるといいな。せっかく、一歳年を取ったんだぜ? 次はお前の奢りで」
「誰がお前なんかに金を出すか。今日も仕事だ。バカタレ」
「接待か?」
「ほぼそれだ」
 はぁ、と桜屋敷からまた溜息が生まれる。これは先までのものと程度が異なる。愚にもつかないことへの呆れで生じたものと違い、度重なる負担の重みによる疲れだ。接待もまた、脳への重労働の一つである。桜屋敷が接待すると聞いて、本日の予約にあった名前を思い出した。
「っつーことは、俺の店にも来るということか?」
「お前の店は人気だからな、ないことはないだろう」
「だったら。そのときに出してやるよ。ケーキ。俺の客への評判も上がるしな」
「要らん」
 企む南城の肩を殴り、桜屋敷は先に自分の衣服を抱えて部屋を出る。口で否定しても仕事の場となれば別だ。必ず相手の顔を立てて食べるに違いない。コースにない料理を急遽作る手立てを考えているところで、南城は気付く。なぜ桜屋敷が先にシャワーを浴びようとしているのか? 問題に気付いた途端、南城は声を荒げた。
「おい!! 俺が先に入るんだぞ!?
「家主ファーストだ。よって、俺が先に入る」
「普通客に譲るもんだろ!?
「おい。隣に並ぶな。お前のせいで廊下が狭く感じる!! 離れろ! 筋肉ゴリラ!!
「お前が後ろに下がればいいだけの話だ! この陰険眼鏡!!
「ほざけ!」
 三月二七日の誕生日を迎えても、変わらず仲の悪い喧嘩を行う。例え声を荒げず冷静に話をしたとしても、どこかで必ず綻びが生じる。必然だった。
 一八〇を超す長身のガタイの男が二人、互いに肩を激しくぶつけ合いながら歩く。反対側の肩がお互い壁にぶつかった。岩すら砕く筋肉量であった場合、下手すれば壁にヒビが入るだろう。その懸念は頭の外からすっかり放り投げだされ、互いにどう相手より一番に目的地へ辿り着くかしか考えられなかった。
 互いの眼中に互いしか存在しない。それは桜屋敷の誕生日だとして、例外ではなかったのだった。