三ヶ月先の約束
本日の〝S〟は大荒れであった。愛抱夢が突然登場して、スノウにラブ・ハリケーンを与えた事態は起きていない。ラブハックならぬ、ラブ・ハリケーン。なぜアメリカ大陸を横断する台風の呼び名を冠するのか? それは目撃者にしかわからないことである。とにかく、今回の大荒れは愛抱夢の登場に依るものではない。問題は、Cherry blossom――ことチェリーだ。チェリーの気分がすごぶる悪かった。まるで手負いの獣のようである。なにかを探すように鋭い目で周りを見渡し、愛機のカーラに落ち着いてくださいといわれる。「あぁ、悪い。カーラ」とチェリーの機嫌は一時的に落ち着くが、すぐに元のしかめっ面に戻る。首に落ち着かせた口布を口元に纏っている分、眉間の皺がとても目立つ。落ち着く一環か、元より滑るつもりだったのか。坂を降りている間に後ろから新たな歓声が聞こえる。黄色い悲鳴と応える声からして、ジョーだ。チェリーのしかめっ面がさらに酷くなる。機嫌の悪さをさらに表出し、ジョーのいる方向を睨みつけていた。やがて、ジョーがチェリーの隣に並ぶ。「よう。そんなに顔を顰めていると、皺が残るぜ?」トントン、と自らの眉間を用いて挑発したせいか。チェリーはなんの前置きも与えず、ジョーの足元に蹴りを食らわせた。いつもの仲の悪さである。
どうせ、チェリーの機嫌の悪さはジョーが原因だろう。ジョーとチェリーは仲が悪いからな。どこかでチェリーの怒りを買ったんじゃねぇの?
などなど、ギャラリーは口々に好き勝手いう。その憶測は、遠からず当たらずだ。まず一つ、チェリーの機嫌の悪さがジョーが原因であることは当たっている。しかし、怒りを買った原因が二人の仲の悪さにあることは間違っている。二つ目、場所はスケーターたちが集まるクレイジーロックにあるのではない。「荒れてんなぁ」とレキがコースを滑る二人の様子に呟くように、誰も事が起きた原因を目撃していない。
この機嫌の悪さは、〝S〟外に起きたことである。
本日の〝S〟終了後、チェリーとジョーは帰路に就く。「おい。そこの馬鹿ゴリラ。少し付き合え」未だに機嫌が悪い。ゴリラ呼びされたことにムッとしつつ、付き合いのいいジョーは答えてやる。「誰がゴリラだ。で?」続きを促せば、場所は学生の頃によく利用した廃スタンドだった。
廃スタンドに電気は通ってなく、日が落ちると完全な暗闇が待っている。周りにある人工の光は、ポツポツと広い間隔で並ぶ街頭だけだ。二人ともバイクに乗ってきたので、学生の頃と比べて短い時間で辿り着ける。チェリーはバイクを停める。ジョーは懐かしい溜まり場を見て、思い出に浸った。「で? もう一勝負、トリックで勝負をするのか?」意地悪めいた笑みを浮かべる。チェリーはジョーよりトリックのスキルが高い。ジョーがパワー系で行くのならば、チェリーはテクニカルで勝負に出た。つまり、スキルの高さで勝負することはチェリーの得意分野である。
ジョーの質問に、チェリーはなにも答えない。
組んだ腕の上に置いた指で、神経質に二の腕を叩いている。よくよく思えば、なぜ肩に掛けただけの羽織りは落ちないのか。金を持っている分、特殊な仕掛けでもあるのだろうか? ぼんやりとジョーは問題と関係のないことを考える。
痺れを切らしたチェリーが、口火を切った。
「お前、大事なことを忘れているだろ」
「は? なにがだ?」
「六日前のことももう忘れたのかッ!? 俺の誕生日だ! バカタレッ!!」
「祝っただろ」
「あんなもん、祝ったうちに入るかッ!!」
チェリーこと桜屋敷薫の怒りは心頭にまで達している。ジョーこと南城虎次郎はツンとした態度だ。相手にしようとしない。バイクのハンドルの窪みに肘を置いて、顎を支えた状態で顔を背けていた。律儀に目も瞑っている。
取り合おうとしない南城に、桜屋敷はますます怒った。
「最初は忙しさで忘れているだろうと思い、許してやった。だが、普通日付けを超える前になにか一言は伝えるはずだろ!! ぼんくらッ!」
「あ!? 伝えたじゃねぇかッ!! 桜屋敷先生、おめでとうございます。ってな!」
「んなの祝ったうちに入るか!! ボケナス!」
いったいわないの張り合いの内に、互いに喧嘩に熱が入る。桜屋敷と南城の頬に青筋を立てる。自分の主張が正しいと言い張りたいのか。桜屋敷は南城に近付き、顔を寄せる。怒り心頭の態度と顔に、南城もキレたのか。バイクで寛いだ状態のまま、上半身を前のめりにした。ガツンと毎度の如く額が衝突する。鈍い痛みが頭蓋骨を伝わっても、両者は引かない。ギリギリと奥歯を噛み締めて、相手を睨みつけるだけだ。
またしても桜屋敷が口火を切る。
「毎年毎年俺を必ず祝っていただろうがッ!! 忘れたとは、いわせんぞ?」
「毎日タダ酒タダ飯食ってる人間が、なぁにをいう」
最後にドスの据わった声に釣られて、南城も地を這うかのような低い声を出す。ピクピクと口角が引き攣った。念を押す桜屋敷と違い、南城は揚げ足を取る。子どもの喧嘩だ。そして逆に、いつもと違って大人の態度を見せたのは桜屋敷である。ツンと冷めた態度を取ることが、大人の振る舞いであるか否かには議論を呼ぶ。
「たまには払ってやっているだろうが」
「試食してやると銘打った以外にはなッ!! なんだ、ケーキでも出してほしかったのか?」
「もっと他にあるだろう」
その当然といわんばかりの態度に、南城はムッとする。それを当然の権利だと主張されることに、些か不満はあった。なにせ、その要求は、要求される側の苦労が必要とされる。それを、この男はその苦労を労うこともなく、自然に発生するものだと誤解している。たまにはこの苦労を払うに値する分の褒美は返ってきてほしい。そう願うのは、人として当然だ。霊長類でない動物だって、当たり前のように願う。
自分が原因にあることに気付かない桜屋敷は、何食わぬ顔で話を続けた。
「金欠ゴリラが、物で俺を祝うとは思えん」
「毎日お前のために飯を作ってやっているだろうが。陰険眼鏡ッ! 自分の胸に手を当てて、よーく考えてみろ」
そんなことをいわれて、素直に従う桜屋敷ではない。腕を組んだまま、目を瞑る。視界を閉ざし、計算的な思考を行うこと一秒。一つ深く息を吸った後に、深く吐いた。口を開く。
「俺の誕生日だぞ」
「その態度をどうにかしろッ!! その、なんだ。クソッ。もう少し、俺を労われというか、だな」
「あ? 聞こえん。はっきりと大きな声で俺にいえ。馬鹿ゴリラ」
「テメェッ!! わかってていってんじゃねぇだろうな!?」
「ハンッ」
鼻を鳴らした時点で確信犯である。一人で頭を抱えてうだうだ悩んでいた身が馬鹿らしく思えた。南城はウェーブのかかった髪の隙間から桜屋敷を睨み、バイクから立ち上がる。
僅か数歩で、桜屋敷の前に立った。僅かゼロセンチの距離で桜屋敷を見下ろし、大きく口を開く。
「たまには俺を労わって抱け!! 陰険眼鏡!」
「は? なんで俺の誕生日にお前を労わる必要がある。お前が、俺を労わるんだろうが」
「お前の誕生日に抱かれても、お前の抱き方で全然祝ったような気分にならねぇんだよ!! すかたん! お前、お前」
南城の声が震え始める。高く張った肩も小刻みに震え始め、顔に血が上った。まるで真っ赤なトマトであり、悔しいのか、眉間に皺を寄せて眉を吊り上がらせている。たれ目の目尻も吊り上がっており、微かに眦に小さな涙を溜めていた。
ふと、桜屋敷は最後にナポリタンソースのスパゲッティを食べたことはいつだったかと思い出す。
「もう少し俺を労わって抱け!!」
「俺の誕生日だろうが!」
話は決裂した。一向に聞く耳を持たない桜屋敷に我慢の限界を迎えた南城は、肩で桜屋敷をどつく。桜屋敷も負けじとどつき返した。
「痛いだろ!」
「俺だって痛いわッ! 毎回毎回抱かれる度に、俺がどれだけ準備したと思ってやがる!? この変態眼鏡! お前、お前……、一時間は普通にかかってんだぞ!?」
「そうか」
「『そうか』じゃねぇよ! この阿呆ッ!! とんちんかん!」
「俺のどこが頓珍漢だ! 阿呆ッ!!」
「そこじゃねぇよ! すかたん!」
目が潤む程度に涙が留まっているのは、悲しみより怒りが強いからに他ならない。いや、悲しみを感じる隙間もなかったのだろう。桜屋敷に悲しみを抱くことは、桜屋敷自身が死んでしまった場合以外に抱くことはない。幼い頃から相手を知る身だ。とっくのとうに相手の言動で悲しみを覚える関係性は過ぎていた。
最早不敬に対する怒りしか湧いてこない。顔を真っ赤にする南城と違い、桜屋敷は目尻を吊り上げ、青筋を浮かばせて鋭い言葉で攻撃するだけだ。
「あの抱き方の方がよっぽど感じていただろうが! 変態ゴリラッ!!」
「変態じゃねぇよ! 少なくとも、お前より変態じゃねぇ!!」
「どうだか。ならば、録画したものをお前の誕生日に見せてやろうか」
「いらねぇよ!! っつーか、撮るなッ!」
「誰がゴリラの痴態なんか撮るかッ!! 自意識過剰もいい加減にしろ! とにかく、話は聞いてやる。問題は、俺の誕生日だ」
「さっきまで聞く耳を持たなかった眼鏡が、なにをいう」
サラリと要求を流して開き直る桜屋敷に、南城は声を低める。頭部を低くして自身の肩に耳を預けた分、声が小さい。ジッと不満を滲ませて睨みつける南城に、桜屋敷は胸を張る。
「お前からの分は、まだ貰っていない」
直に示す単語を使わず、声色や会話の端々から意味を滲ませる。直接言葉に出さない癖に、ダイレクトに伝えてくる桜屋敷に、南城は白旗を上げた。小さく肩を落とし、溜息を吐く。嫌になったかのように、額にかかる自分の前髪を大きな手で掻き上げた。
「他の人間から、散々貰っただろうが」
「アレは仕事での付き合いだ。当然、レキとスノウが俺を祝った分も別のものとなる」
「意味わかんねぇ。お前の誕生日を祝ってる分にゃ、同じことだろ?」
「俺にとっては違うんだ。阿呆」
ようやく出てきた直接的な言葉に、南城は言葉を詰まらせる。まさか最後の最後で、この土壇場で出るとは思えなかった。いつだって桜屋敷は南城の予想を裏切る。こうなってほしいと望む場合にこうしたことをしてくれないし、こうはならないだろうと思うところに不意を突いて与えてくる。散々振り回された。今も昔も、振り回され続けている。
ぐぅと言葉を飲み込み、渋い顔のまま空を見上げる。夜空だ。爛々と無数の星が輝いており、月明かりが海面に反射する。潮の匂いもほの辛く、南城の代わりに泣いているようだった。
幼少期のように意見を衝突してしまっても、結果は変わらない。
涙を一つ飲み、南城は食い下がった。
「仕方ねぇなぁ」
「よし、尻を出せ」
「今ここでするかッ! 馬鹿ッ!!」
「あ? できる手筈になっているんじゃないのか?」
「んなわけあるかッ!! こっちにも予定ってもんがあってだなぁ。第一、んなした状態で滑ると気が散るというか」
「ほう」
「テメェ、絶対しねぇからな!?」
「俺はなにもいってないが?」
「なんとなくわかるんだよ!! なめんなッ!」
「フンッ」
今度は鼻を鳴らして顔を背けた。この頑固者が、果たして自分の要求を受け入れたのか? 南城は食い下がって問い詰めたいが、追及するタイミングを掴めない。下手に踏み込んでは、ここまで培った審問の扉を崩してしまう。まだ土で形を作ったところなのだ。下手に触っては、あとかたもなく追及するタイミングが消えてしまう。
石のように堪えてチャンスを待つ南城と違い、桜屋敷は涼しい顔で携帯端末を取り出す。愛機カーラと連動できるが、今はしたくない。手頃なホテルを価格帯で割り出し、今の気分で部屋を選んだ。
「今の時間、空いてる部屋がいくつかあるぞ」
「この格好で行けって?」
冗談じゃない。南城は桜屋敷に顔を近付ける。桜屋敷が顔を上げれば、コツンと額が当たった。
当然だろう、と顔が答えを物語っている。しかし口に出さないということは、そのリスクが頭の中に考慮として存在しているからか。〝S〟の衣装のまま街中や夜明けに出歩くのは不味い。自分たちの正体がバレる危険性がある。
桜屋敷は南城から顔を逸らす。新鋭先鋭AI書道家桜屋敷薫にとって、ゴシップの類は痛手だ。指に頬を預けて、一つ考えた。
「ふむ。一旦帰るか」
「時間を考えろ。馬鹿。まぁ」
多少己の身を案じてくれたことに、嬉しさは感じる。南城は貴重な桜屋敷の要求を見て、少し甘い態度を取った。
照れくささで顔を顰めながら、耳元に口を近付ける。
「明日の夜だったら、付き合ってやらんこともない」
この妥協に、桜屋敷がバッと顔を上げる。互いに良い歳をした大人で、店を持っている身だ。桜屋敷は書庵で、南城はイタリアンレストランで、明日に向けた準備もある。まだ若くとも、寝なければ明日の仕事に差し支える。この折衷案は、現状において魅力的だった。
「ゴリラにしては、マトモなことをいう」
憎まれ口を叩くが、南城に対する桜屋敷に関しては素直な賞賛だ。「寝落ちすんなよ」懸念を買い言葉で桜屋敷を叩く。「誰が寝るか」売り言葉で南城に叩き返した。
遅れた桜屋敷への誕生日プレゼントは、一週間を超えて渡された。
そんな誕生日の祝い方もあったものである。南城は桜屋敷から確認を取りたい気持ちを堪えて、バイクに跨った。三ヶ月先まで答えが引き延ばされるとは、なんたるむず痒さであるものか。けれども仕事をしているうちに、あっという間に三ヶ月は過ぎる。ひとまず、目先のことだ。南城はバイクで走りながら考える。
腹の奥が熱くなる。その考えを振り払って、明日に向けて時間を調整したのであった。