3種類のパスタ
水墨画を描くにしても、相応の労力を要する。墨の選別に加えて、胡粉の準備。磨った墨から出る色合いに合わせても、色を調整しなければならない。自然の鉱物から作り出した岩絵具か、化学の力で人工的に作った岩絵具、土や貝殻を砕いた水干絵具か──その中で安価な土で精製した泥絵具か。墨を考えると、混合色を作れる水干絵具が一番利便性が高いだろう。人工的な発色を見せる化学の力で作り出した岩絵具は、また別の機会に回す。(近代的な、IT方面か。そこと和の融合に使えそうだが)今は【書】の個展に出す作品作りだ。サイバーテクノロジーとの融合は、目の前の騒音となる。AIのカーラは、ホームモードで机の上で鎮座している。本体は桜屋敷の手首を離れ、小型のデバイスに収まっていた。ホログラムで映像を表示する機能を備えた装置だ。桜屋敷の集中を妨げないよう、沈黙を守る。
そうして書庵で作った作品は、沖縄某所の美術館のギャラリーへ飾られる。「なんだかよくわからないけど、イケメンの書道家も出してるって話で」「その人の本持ってるけど、本当イケメンだったよねー!」ミーハーな女性が、美術館へ入る前に、そう話す。(マジか)彼女たちをナンパした南城は、心底気が滅入った。またしても、ナンパした女性に桜屋敷が絡んでいたのである。(どうか薫のヤツがいませんように)もしいてサイン会を開いたつもりならば、またしても喧嘩が起こる。「どうしたの?」「そんな長くいるつもりはないって!」様子を尋ねる声と、揶揄う声が両脇から飛ぶ。ナンパした女性が自分へ気を向けたことに、南城は機嫌を戻した。「なんでもないよー。大丈夫」「そう? 俺も興味あったんだけどな。それ」そう感謝と同意を見せれば、女性たちも機嫌を良くした。やはり女の子をナンパすることは健康に良い。女性を両脇に携えたまま、南城は美術館のギャラリーに入る。件の画廊で例の作品を見ても、桜屋敷が作った以上の認識が出てこなかった。〈桜屋敷薫が描いた水墨画〉であり、絵の良し悪しがわからない。南城のナンパした女性も水墨画の基準や評価もわからず、ただ桜屋敷が描いたことで評価している。画廊を訪れた若い女性の多くは、桜屋敷目当てだろう。なんとなく、ナンパで培った観察眼がそう囁いた。桜屋敷以外の作品へ足を止める人数は、少ない。そのままナンパした女性たちと画廊を出て、楽しく過ごした。
「そういえば」
洗い終えた食器を拭きながら、南城はいう。接待を終えた直後、そのまま〝Sia la luce〟に居座った桜屋敷が視線を上げた。〝S〟の情報交換をしていたところである。今となっては、ただの近況報告でしかない。
桜屋敷の視線に促され、南城は続きを伝える。
「お前、書道家なのに絵なんて描くんだな」
「あ? 勝手に俺のツマミを食うな、脳筋ゴリラッ!!」
「テーブルに出してない以上、お前のものじゃない」
あむっ、とナッツをもう一つまみする。これに腹を立てた桜屋敷が「フンッ!」と憤ってカウンターを越えて奪った。「あっ!」小さく声を上げて、南城は驚く。桜屋敷は彼に背を向けて、失われたナッツの残りを口にした。軽く炙ったナッツは、実の香ばしさを引き立てる。ガリガリと奥歯で噛み砕き、態度で「お前の分はない」と示す。やり返されたように感じ、南城はカリッとした。米神に青筋が立つ。「で?」ヘーゼルナッツを齧り、桜屋敷は尋ねる。
「それがどうした」
「書道家は絵も描くんだな、と思ったまでだ」
「はぁ、これだから教養のないゴリラは困る」
「あ?」
「できても、ほんの一握りだ。書道家だからといって、一朝一夕で身に付けられるものじゃない」
「へぇ。簡単にできるものだと思ったぜ」
「馬鹿をいうな。カーラに教えるにしても、俺が理解する必要があるだろう。ド阿呆」
(あれ、お前が作っていたのかよ)
いつか見たAI大書を思い出す。桜屋敷が全身で、筆を動かした様子ではない。巨大なスクリーンに映し出した、それが作るデジタルの表現だ。マイクの肉声がいうには、正式名称は〈AIデジタル大書〉らしい。もしくは〈デジタルAI大書〉か。興味のない分野なので、よく覚えていない。桜屋敷のように、南城はその手の分野に興味を覚えなかった。性格も違えば、趣味や嗜好も異なる。服の趣味こそ正反対に位置した。その差も踏まえているからか、桜屋敷はそれ以上踏み込まない。興味のある者になら役に立つ蘊蓄も、話そうとしなかった。南城の前で出る蘊蓄といえば、スケート関連だけである。残りは時間の無駄だと断じて、好んで話そうとしない。
時間の無駄も嫌う男は、ワインを口にする。
「それにしても、驚いたな」
「ん? 珍しいな。お前が素直に人を褒めるなんて」
「誰がお前を褒めるといった。低能ゴリラッ!! 俺はゴリラが風情を理解しようとすることに、感心したまでだ」
「おい!! 人を動物園のゴリラ扱いするなッ! 卑怯眼鏡!!」
「俺は事実をいったまでだ。原始人」
「人間扱いって言葉を知っているか? ロボキチ」
「それくらい知っている。お前の雑頭と一緒にするな。カーラ」
『対等な人間として扱うことです。世俗的には【迫害】【差別】【弾圧】【理不尽】【偏見】から遠い、もしくは受けることのない対象も指します』
一般的に流通する概念を、ざっくり纏める。優秀な愛機が定義に、桜屋敷は胸を張った。その自信のない根拠に、南城が呆れる。
「そういうのじゃないだろ」
「カーラの言うことに間違いはない」
「どうだか。どうせ人間が作ったものだろ。どこかで間違いが起こるはずだ」
「俺のカーラはそのようなミスを絶対に起こさない。AIを使って、厳重にチェックを掛けているからな」
「カーラか?」
「違う。エラー識別に特化した特化型AIだ」
「お前のAIっていえば、カーラだろ」
「カーラは汎用型AIだ!! ボケナス! これだから能のないゴリラは困る」
「いいのか? そんなことをいって。俺は知っているんだぞ」
「なにがだ」
「お前が和食好きの面《ツラ》をした」
「その話はもうやめろ!! ったく、しつこいゴリラだ」
「人のことをいえる立場か? 重箱隅突きピンク」
「女をたらしこむタラシゴリラが偉そうな口を叩くな」
「ひょろ眼鏡が偉そうな口を叩くな」
「真似するなッ!」
「そっちこそ真似するな!!」
「お前が先に真似したんだろうが!」
ガツンッ! と額と額がかち合った。ギリッと睨み合ってから、頃合いを見て顔を反らす。前回は喧嘩に夢中になった余り、テーブルに気付かず床に倒れ込んだ。「お前ら、本当飽きないよな」その光景を見て、飲みに付き合ったシャドウが呆れる。馬乗りになった桜屋敷と倒れた南城が異口同音に反論したことは、記憶に新しい。その二の舞を踏まないよう、慎重に距離を取った。
南城はカウンター内キッチンに、桜屋敷はカウンターの客席に戻る。ワイングラスの中身はそれほど減ってないし、キッチンの洗い物は進んでいた。
布で水気を拭く作業に戻る。
「で? 今日は何時帰るんだ」
「パスタ」
「飯の要求じゃなくて、だなッ!」
「なんだ。帰ってほしいのか」
カウンターテーブルに置いたツマミを、一粒つまむ。ヘーゼルナッツだ。クルミやアーモンドには、まだ手を付けられていない。性急に要点を突き付けられた南城は、言葉に詰まった。腕を組み、目を瞑る。沈黙が長引き、顔に苦渋が浮かぶ。ギュッと眉間に皺を寄せ、苦々しく呟いた。「別に。そういうわけじゃ、ないが」声色に躊躇いが出ている。
口直しにワインを含んだ桜屋敷は「そうか」と頷いた。
「なら帰らせてもらうぞ。もう少ししたら、帰ろうか。カーラ」
『オーケー。マスター』
「あっさりしすぎだろ!? もう少し、こう。粘るとかあるだろう」
「ないな。パスタを出すなら、考えてやらんでもない」
「あのな。さっき接待しているときに食べていただろ! お前!!」
「それとこれとは別だ! カルボナーラがいい。なんなら、盛り合わせでもいいぞ」
「簡単にいうな。タダ飯食らい!! ったく、腹ペコ狸はこれだから困る」
「誰のせいだ」
「俺が散々試食させたから、俺の飯じゃないと満足できなくなったって?」
「嬉しそうな顔をするな。気色悪い。さっさと作ってこい。別にお前のじゃなくたって、満足できる」
「毎回俺の店に入り浸っているというのにか?」
「タダで飯と酒にありつけるからだ。ド阿呆」
「おい!! たまにはお前から持って来いよ。酒」
「気が向いたらな」
「あぁ、そう」
呆れつつも、南城は厨房へ入る。桜屋敷のオーダーに応えるためだ。『マスター』カーラが用件を伝える。『フランスとアメリカの企業から依頼が一件ずつ来ています』メールの着信だ。日本が既に夜の帳に包まれたのであれば、地球の裏側では太陽が昇る。「カーラ」要点を纏めてくれ、と呼んだ名前に籠める。それを汲み取り、最先端の技術で構築した優秀な人工知能は迅速に英文を和訳して要点を述べた。どれも、デジタル関連の分野である。書道家としての腕は勿論、プログラマーとしての腕も鳴る。成功報酬も申し分ない。残るは契約書の違約金の辺りだが、ここは帰ってから読むことにしよう。カーラが気を利かせて、桜屋敷の携帯端末に文面を送る。世界共通言語の英語で記されていた。ひとまず、原文で確認を行う。英文の構造を分解し、理解、母国語に組み立てる。第二言語を読み解くだけでも、時間がかかった。その間に、南城がパスタを作り終える。
「ほらよ。おまちどう」
「ラーメン屋の店主か。ふむ」
南城の呼びかけに棘を刺しつつ、桜屋敷は出されたものを見る。真ん中が、カルボナーラだ。濃厚な卵液と生クリーム、ベーコンで作ったものをメインとし、左に粗塩と黒胡椒を振りかけたパスタ、ペンネを使った辛いパスタがある。どれも茹でたパスタを丸めて一束にしたかのように、盛り付けてあった。使用した皿と料理の飾り付けにも満足し、フォークで、パスタを解き始める。端から切っ先を潜らせ、クルクルと刃先に巻き付けた。
「まぁまぁだな」
「そーかよ。で、だ」
恐る恐る南城が切り出す。桜屋敷はパスタを食べながら、話を聞いた。
「その、今日は時間とか、あるんだろう?」
「ない」
「はぁ!?」
「外国から仕事が入った。その解読と返事を急ぎやる必要がある」
「それこそカーラに任せればいいだろ」
「はぁ、これだから素人は困る」
「あ?」
「俺が最終的な判断を下すんだ。先に内容を理解しておく必要があるだろう」
「便利な機械でパパッとできないのか」
「機械じゃない! カーラだ!!」
「別にカーラっていったわけじゃないだろ!! お前がさっきいっていた、その。なんだ。汎用型? っての」
「特化型だ。カーラは汎用型AIに分類される」
「そうか」
「カーラのアドバイスを参考にするためにも、俺が先に中身を理解する必要がある」
「そうか。AIだからって、なんでもできるわけじゃないんだな」
「馬鹿いえ。俺のカーラは優秀だ。恐らく世界規模のコンテストでも優勝できる」
「そういうの、あるのかよ」
「ある」
バッサリと切り捨てる。呆気に取られて言葉も出ない南城を無視して、桜屋敷は手を動かした。もう一種類のパスタを食べる。黙々と食事が続く中、南城が食い下がる。
「時間がないといっても、少しくらいはあるだろ」
「くどい! ないものはない」
「おっ、ま、せめて時間を作れよ!! 時間を! そんなに蔑ろにしたら、浮気に走るぞ」
「目についた女に片っ端から声をかけるタラシゴリラが、なにをいうか」
「それとこれとは別なんだよ。俺は、一途な性格なんだ」
「儚い一途だ」
「どこがだッ!! 俺ほど一途な男なんて、どこを探してもいないと思うぞ」
「カーラ」
『オーケー。マスター』
「男でだッ! 声からして、カーラは女だろ。カーラで張り合うな」
「まさか、虎次郎。貴様ッ!! 俺のカーラに色目を使うつもりか!?」
「誰が機械なんかに色目を使うか! お前と一緒にするな。ロボキチ!!」
「俺はカーラに欲情などしていないが? 色ボケゴリラはこれだから困る」
『現在のジョーの心理状態を分析した結果』
「するなッ!! 持ち主と似て、要らんところまで突っ込みやがって!!」
「カーラに話しかけるな! ボケナス!! 低能ゴリラ!」
「お前がそんなことをいうからだろ! すかたん!! 陰険眼鏡!」
「なんだと!?」
「やるか!?」
「受けて立とう」
ピキピキと青筋が立つ。桜屋敷に釣られて、南城も青筋を米神に浮かべた。口論の最中に、額が激突する。互いに相手を激しく罵りながら、睨み合って距離を縮めた。カウンター席には、あと数口で食べ終わる皿と食事に使ったフォークが残されていた。
剣呑とした喧嘩が続く。「じゃぁ、勝負はどうする」切り出さない桜屋敷に、南城が切り出した。ギリギリと睨んで一歩も引かなかった桜屋敷が、口角を上げた。「ほう。俺に勝ちを譲ると」「誰が譲るか! 先攻は、譲ってやってもいいぜ?」「気に食わん。後攻は俺だ」「いいや、俺だ」「俺だッ!」「真似するな! 陰険眼鏡!!」「そっちが真似したんだろ!」すぐに取っ組み合いの喧嘩になって、床に転がった。
キスだとか抱くだとかの話は、石ころのように転がって消えた。