エイプリルの半休日
本日の〝Sia la luce〟はお休みである。半日休みを取り、ディナー時だけの開店とした。特殊な月初めに因んだ世界的なイベントの都合上、どうしてもそれら嘘に付き合う必要がある。それら接待の相手をすることも、一苦労だ。よって、一身上の都合で本日は休みとした。それらが無縁の仕事であればいいのだが──、そう世界は都合よく回らない。
趣味の食べ歩きで自分の機嫌を取り、各店の対応を見る。やはり、普通に営業をしている。この日に因んで洒落たジョークをいおうとする客も見当たらない。単純に、自分の店だけにそういった客が多いだけなのか。老舗の精肉店でテイクアウトを頼み、その場で食べる。やはり美味い。(肉を買うとしたら、ここが信頼できる)予算の都合で他の精肉店を選ぶことはあるが、目利きとしてはここだろう。ペロリとステーキを食べ終えたら、店の中に入った。自分のご機嫌取りのために、半日休みを取ったのだ。どこを見ても、質の良い牛肉と豚肉ばかりが揃っている。感嘆の溜息を漏らしつつ、アグー豚のスモークとソーキ汁の加工品をカゴに入れた。地元の琉球語を用いつつ、伝統とモダンを融合したものに興味を惹かれたことと、単に燻製した商品を食べてみたかっただけである。料理人としての研究心だ。決して、南城の食べたいという欲が勝ったわけではない。現に、豚肉も買って帰った。
喉が渇いたので、フルーツパーラーでドリンクを買う。フルーツを切ったりサンドウィッチで挟んだりしたものは気になるが、特にレシピは思い付かない。スティック状に細長く切ったパイナップルの食べ歩きは諦めて、ジュースを選ぶ。バナナシェイクは、予算の都合上またの機会にしよう。グァバジュースに挑戦してみた。フルーツ専門店の名に相応しく、素材の味を最大限に引き出している。桃やリンゴを中心としたミックスジュース的な味わいもあることから、女性の人気も高いことが頷ける。果実の食感を思い出し、頭を悩まされた。(使うなら、ソースか?)食感は万人が好むものとはいえない。アイスクリームやソースなど、食感の名残りがないものへ加工した方が提供しやすい。料理人としての、取捨選択である。
ずっと昔から営業している、老舗の製菓店の前を通りかかる。祭事などで、よく見かける名前だ。チラッと店頭に並ぶ商品を見るが、饅頭がある。次は黒糖を練り込んだ生地を巻物状に巻いたもので、砂糖を練り込んだサーターアンダギー。南城の苦手な甘すぎるラインへ、ギリギリ触れるか触れないかのラインだ。ゴマだけを一つ買って、様子を見ることにする。これはまだセーフだ。ペロリと平らげる。
ポークたまごおにぎりの専門店で、家庭の味を食べる。作る者がいない一人暮らしにとっては、ちょうどいい。高校生の頃、桜屋敷と小腹が空いたときに買って食べたことを思い出した。あの頃はまだ、コンビニか弁当屋でしか買うことができなかった。
肉の鮮度が危ない。南城は慌てて近くのスーパーに入る。今回は自分で食べる分なので、材料の質はコレで充分だ。賞味期限で安くなる商品を買い、味の好みも考えて材料を追加する。安く買った分だと、きっと余るであろう。追加でもう一声、南城は新たに材料を追加した。頭の中でレシピを組み立てる。カゴの商品をレジに通すと、野口英世二枚分の予算で収まった。お釣りの小銭を受け取り、鮮魚や鮮肉、冷凍食品や冷蔵食品用の氷を受け取った。スーパーの袋と一緒に、精肉屋で買った肉も入れる。
(この時間帯だと、アイツは家にいるだろうな)
昼へ入ったばかりである。昼飯を求める客層で混雑する中、南城は行き先を変える。車や人の往来が減った頃合いを見計らって、抱えていたボードに乗った。クルージングをする。ついでに、材料に被害が出ない程度でトリックを決める。
暫く道なりに滑っていると、桜屋敷の住居に着いた。重力と摩擦で減速したボードのテールを下げ、ブレーキを掛ける。止めたボードを脇に抱え、桜屋敷の家の玄関まで歩いた。
インターホンを押すと、応えはない。もう一度押してみる。やはり反応はない。ドンドンと強く扉をノックしてみる。「かおるー。いるのはわかっているんだぞー」インターホン越しに脅しをかけてみれば、数秒後。ガチャッと鍵が開いた。
ギィと不気味な音を立て、家の主が現れる。
「こんな朝っぱらから、なんの用だ。低能ゴリラッ!」
「もう昼だぞ。なにって、そりゃ試食係」
「他を当たれッ! 俺は忙しい」
「かといって、朝からなにも食べていないんだろ? 自分の顔を鏡で見てみろよ。酷い顔をしてるぜ?」
「馬鹿か? 正確には、昨晩からなにも食べていない、だ。阿呆め」
「ますます駄目じゃねーかッ! そんな朝食を抜くくらい、いったいなにをしていたんだ?」
「阿呆ゴリラに理解できるとは思えん。カーラの演算処理のコストパフォーマンスを高める改良だ。人工知能の演算能力を高めるに当たり、負荷の面がどうしても削れん。どうにかして他の面で工面しようとも、最悪カーラの処理能力全体のコストパフォーマンスが落ちる可能性が」
「はぁ? 人間様にわかる言葉で話せよ。ロボキチ」
「あ? 人間様の文明を理解できると思い上がるなッ! 類人!!」
「だったら真似するんじゃねーよ! ロボキチ!!」
「真似をしたのは、お前だろうがッ!! この低能ゴリラ!」
「今日先に言い出したのは、俺の方からだッ! だから俺が先攻を取る。これに異論はないな?」
「大有りだッ! ボケナス!! カーラ。この馬鹿ゴリラが今まで口にした、ふざけた発言を説明してやれ」
「今、カーラはメンテナンス中じゃなかったか?」
「良かろう。たっぷりと身の程を思い知らせてやる!」
「機械がいない癖に、どうやって思い知らせるっていうんだ? ロボキチ」
シュッと首を切った親指を肩の後ろへ向けるジェスチャーをした桜屋敷に、南城はピキピキ切れる。言語で喧嘩を行いながら、桜屋敷の家に入った。
南城の示した通り、桜屋敷の顔色は悪い。たっぷり徹夜をしたことを示すかのように、目の下に隈が出来ていた。「接待の用事が入ったら、どうするつもりなんだ?」勝手にキッチンへ入りながら、南城が尋ねる。「問題ない。今日は休みを取った」桜屋敷は一度も振り向かず、機械の詰まった部屋に戻った。また青白い顔でパソコンと向き合うのだろう。カーラの声がなければ、あぁまで悪化するのか。溜息を吐く。
(万が一、急に客が入ってきたらどうするって話だ)
直接罵倒と合わせて言い返したいが、本人は聞く耳を持たない。機械の調整を行う作業に没頭を始めた。なにか文句をいいたいが、今いっても双方ともに良い結果を運ばないだろう。
グッと飲み込んだ文句は、桜屋敷が現れたときに吐き出すことにした。
冷蔵庫や備蓄を収納したところを見れば、使える材料は揃っている。南城が怒って買い足した食用油も、僅かながら使った形跡があった。どうやら、自炊をしようとしたことはあったらしい。キッチンに揃うメンバーを見たあと、調理を始めた。
チーズを手頃な大きさに切り、買った豚肉でタネを作る。ニンニクを使いたいが、口臭のケアが大変になる。味の深みと旨味を犠牲にして、今回は外した。ニラも同様。代わりに安売りにあったキャベツをみじん切りにし、大葉とチーズと一緒に豚肉へ混ぜ合わせる。生姜は、冷蔵庫にあったチューブのものを使った。意外と庶民的なものが揃っているが、全て南城が文句をいいながら買ったものである。最早桜屋敷のキッチンが、南城の店と関係ない料理を試作する場として機能していた。
(今日が休みだとすると、店に来る可能性はあるか)
閉店後がピークである。料理の他に、桜屋敷の分も作らなければならない。タネを作り終えると、フライパンにごま油を入れて熱した。こびりつき防止のテフロン加工であるので、先に油を入れなければコーティングが剥がれてしまう。
じゅうじゅうと音が鳴った頃に、餃子の皮を敷けるだけ敷く。計十枚。フライパンの底を丸い餃子の皮で敷き詰めると、豚肉のタネを広げ始める。まるでホットケーキ、いや【お好み焼き】だ。お好み焼きの要領で具を敷き詰めると、同じように餃子の皮を敷き詰めて、蓋をした。そのまま五分、熱を外に逃がしたまま中火で焼く。その間に使ったボウルを洗い、もう一つ準備をした。余った材料を使った、おつまみみたいなものである。ハムが残っていたので、それを使う。カーラの助言があったのだろうか。律儀に必要な枚数分だけが使われている。その余りと一緒に、全部大葉とチーズに包んだ。
その間に、フライパンに接した面に焼き色が付いた。このタイミングを逃さず、南城は料理酒の準備をし、サッとフライパンに回し入れる。この手腕は、桜屋敷はカーラの補助がないとできない。誤って酒を多く入れたり、少なくして入れる恐れがあるからだ。酒を入れ終えると、無機物の蓋をして蒸し焼きにする。食べるラー油があるのは、桜屋敷の食の好みが働いたからか。その辛い調味料を、ソースのタレに使う。醤油と酢は忘れない。餃子といえば、これだ。一方、こちらのイタリアンのアレンジには使わない。せめて塩で頂くのが味に合う。
残り物で作ったありあわせのものを、別の小さなフライパンで焼く。丸めた餃子の皮で測れば、ちょうどいい大きさだ。フライパンで蒸し焼きにしている傍らで、別の物を焼く。もうそろそろ、いいだろうか。きつね色になった餃子を一つ食べ、中の温度を見る。上出来だ。すぐさまコンロから下ろし、水に浸けた米の様子を見た。
きちんと研いだお米は、粒全体が白く色付いている。反射的に、南城は鍋を取り出した。サッと洗い、水を量って、適量を入れる。野菜の水切りに使うザルで水を切ったあと、鍋に移した。このとき、蒸し焼きにした中身に火が通り終える。
空いたコンロに鍋を置いて中火で放置したあと、蒸し焼きを出す段階に入る。気分転換にパソコンから離れた桜屋敷が、フラフラと肉の匂いに釣られて出てきた。
そのままフラフラと、食事をするテーブルに着く。飲むものは出ていない。喉が渇いた。チラッとキッチンを見る。南城が忙しなく動いている。
のろのろと桜屋敷は立ち上がり、自分で飲むものを準備した。水道の水である。
コップを手に取り、洗い物が溜まるシンクに近付いた。
「飯はまだか」
「すぐにできるわけないだろ! もう少し待て」
「ったく、段取りの悪い男だ」
「米も炊いていない人間が、偉そうな口を叩くなッ!! 米が炊けるまで、お預けだからな。冷めたら電子レンジでチンしてやる」
「チッ! それでも料理人か。嘆かわしい。腹が減った客を放置するなど」
料理人の風上にも置けん──、と八つ当たりをする口が続く前に、コトンと皿がシンクの手前に置かれる。先ほど小さなフライパンで焼いた、ありあわせの品だ。桜屋敷は無言で袖を捲る。ヒョイッと、パクッと一口で食べた。
「うむ」
無作法な言葉と裏腹に、顔は満足気だ。相変わらず仏頂面であるが、食べる速度を見るに、味は合格点だ。南城は(素直じゃないヤツ)と思いつつ、追い払う。
「それをやるから、大人しくしていろ」
「黙れ。俺は喉が渇いた」
「だからって、水道の水をそのまま飲むヤツがいるか!? いや、いるけど」
「フンッ。低能ゴリラめ。自らの発言で撤回をするとは、やはりゴリラに人間の言葉は早いと見える」
「なにかいったか? ロボキチ」
「ゴリラが人間様の言葉を喋るな」
「だったら、その言葉。そっくりそのまま返してやる」
「なんだと!?」
「やるか?」
「負け犬ゴリラがほざくな」
「あ!? お前こそ愛抱夢に負けたじゃねーかッ!!」
瞬発的な火力を見せた。ギャアギャアと口で喧嘩をしている間に、コップに水を一杯入れ終える。「この負け犬ゴリラ!」「陰険眼鏡!!」罵倒を叩きつつ、それぞれの持ち場に戻る。桜屋敷は食事をするテーブルへ、南城はキッチンの仕事にだ。
フライパンにあるものを、底の浅い皿に移す。綺麗に入った。作ったソースは、白米が炊き上がるまで待つ。喧嘩の最中に沸騰をした鍋は、南城が無意識に火を弱めた。そこから数分、また火を弱める。タイマーが動く間に、南城は使った器具を片付けた。
洗剤で調理に使ったものを、よく洗う。
ハムとチーズ、大葉を餃子の皮で包んでカリッと焼いたものを、桜屋敷は食べる。
小腹に入れて、コップの水を半分まで飲んだ。一息吐いて、疑問を口にする。
「炊き上がるまで、あと何分かかる」
「さぁな。美味いのにするなら、まだ二十分、いや三十分はかかると見て問題ないだろう」
「はぁ、なら先に米を炊け。無駄がありすぎる」
「隙間時間に色々とやれるだろ。自炊をしてからいえ」
「した」
「過去形かよ」
開き直る様子に、南城は呆れる。普段はレストランを経営している身、手際がいい。五分も経たないうちに、使った調理器具を全て片付け終えた。あとは桜屋敷家で使用頻度の少ない食器乾燥機に入れるだけである。食洗器がないのは、さらに使う機会がないからか。(カーラと合わせたら、水道代や洗剤が勿体ないって言いそうだもんな)と考えつつ、冷蔵庫の中を見る。
あとはジャムとトースト、ミネラルウォーターがあった。
「水、ちゃんと買ってあるじゃないか」
冷蔵庫から二リットルのペットボトルを出す。それに見向きもせず、桜屋敷はパリパリと食べながら反論した。
「どこぞのゴリラが邪魔なせいで取れなかったんだ。ボケナス」
「じゃぁ、一言いって通ればよかったんじゃないのか? 陰険眼鏡」
「退けといわれて素直に退くか?」
「退かねーよ」
「このぼんくらッ!!」
「陰険眼鏡!」
ピキピキ切れる桜屋敷に続いて南城も同じ語句で反論を返したら、鍋から音が聞こえなくなる。カパッと南城は鍋の様子を見た。炊き上がる米や鍋縁の表面に、水や泡がブクブク出ている様子はない。あともう少しだ。蓋を戻して、中火に戻す。そのまま数秒経過させ、カチッとコンロの火を消した。
フライパンで丸ごと焼き上げた様子を見る。粗熱は取れ、粗方冷めている。(電子レンジで温めるか)我が物顔で、電子レンジの中に突っ込んだ。ピッと設定して、マイクロ波で熱を加える。桜屋敷は我が物顔で、最後の一つを口にしていた。
「あっ! 一つくらい残しておけよな!! 貪欲眼鏡!」
「フンッ。先に食べなかった方が悪い。弱肉強食だ。ふむ、中々に美味かったな。おかわり」
「ねぇよ! ほしかったら材料買ってこい」
「あともう一品あるだろうが。それはどうした」
「米が炊き上がってから出す」
「なら、その間にカーラのメンテナンスを完了させるか」
「そんな簡単に」
できるかよ、と軽口を叩く前に桜屋敷が去る。どうやら聞く耳を持たずだ。というより、解決策を思い付いたと見える。(まったく、あの狸眼鏡め)あぁいう我関せずとした態度は、相変わらずだ。相手にするだけ無駄である。あぁいうときは、好きにさせた方が得策だ。南城だって、好きなことに時間を使える。
茶碗を準備する。木べらを洗っている間に、桜屋敷が戻ってきた。左手に、見慣れた柔らかい紫色のバングルが見える。
「え」
「カーラ、調子はどうだ? 具合は?」
『快調です。ありがとうございます。マスター』
「フフッ、いいんだ。もしどこかで不調を感じたら、すぐにいってほしい」
『オーケー。マスター』
(マジかよ)
──あんな一瞬でできるわけがない──。一夜明けても、桜屋敷はカーラの改良に躓いていたのだ。それを、あんな、たった一瞬で。南城はポカンとする。たった数分だけ、離席した間にカーラは復活した。しかも万全なる体調で、である。「一日休んだ分を取り返すには」『マスターは仮眠が必要です。ベッドタイムを本日の二十三時に設定しました』反応速度も上昇していた。桜屋敷の体調を考慮し、仕事を完遂する最適解を実行する。パワーアップしたカーラの知能に、創造主は満足気に微笑んだ。慈愛の瞳を向けている。(こ、コイツ!)繰り返すが、南城に向けたことは、一度もない。
溺愛する桜屋敷に怒りを向ける。横目で睨みつけていると、蒸らす時間が終わった。カパッと蓋を開ける。瞬間、炊き上がる白米の甘い匂いがした。米が作り出す麻薬が、脳内からドパドパ溢れてくる。生唾を飲み込む南城より、桜屋敷が反応した。
「おい。もう炊き上がったぞ」
「今入れる。大人しく待ってろ。陰険眼鏡」
茶碗としゃもじを手に、肩越しで睨む。ジト目の南城に、桜屋敷はムッとした。文句をいいたげな目を閉じ、プイッと顔を反らす。今は炊き立ての米を優先した。褐色の手にある木のしゃもじが、サクッと底からご飯を持ち上げる。白米で籠った蒸気を逃がしたあと、しゃもじで掬い直した。茶碗に盛り付ける。ツルンとした白い陶器と、武骨な感じがする黒い陶器の二つだ。手触りは異なるものの、どちらも白米と接する面は抜かりない。決して陶器の欠片一つも混入させない造りをしていた。薄く透明なガラスの膜を覆わせる、釉薬の工程である。これだけは外せない。──白い陶器は桜の模様を施さず、紺色がアクセントに挿し込まれる。黒い無骨な陶器は、厳密にいえば暗い鈍色だ。こちらは表面がざらついている。使う土が異なれば、仕上がりが異なる。焼く釜が異なれば、滲み出る色や味わいに特徴が出た──。
(ふむ)
南城は一考する。和食は本分ではない。それでも、白い陶器に盛り付けた白米は『白米の富士山』と形容しても良さそうだし、黒い無骨な方は『白米の阿蘇山』と形容できた。どちらも和を飾る分に申し訳ない。ここで忘れてならないことが、本日の副菜だ。
放置した電子レンジから白米のお供を出す。保温の機能で、まだ温かい。ウェイターの技術を応用し、料理を出した。真ん中に大皿を置き、ソースの入った小皿をそれぞれ置く。次に白いご飯を出し、準備を終えようとした。「へい、お待ちどう」「ラーメン屋に転職したか?」イタリアンシェフらしからぬことをいえば、ギロリと書道家が睨みを利かせてくる。これを無視して、南城は向かいの席に座った。
椅子に座ろうとしたところで、急須を思い出す。キッチンに戻り、茶葉を探す。玄米茶があった。緑茶は飽きたのか、こちらは安価である。(普段使いを考えると、な)高い茶葉をガブガブ飲むわけにはいかない。ドケチ眼鏡の本分は、ここでも出た。
湯呑みを持ち出し、テーブルに置く。自分の分を淹れてから、南城は席に座った。
「俺の分は」
「自分で淹れろ」
給仕を放棄した。生意気な態度にムッとしつつ、桜屋敷は自分で淹れる。着物の袖を脇へ摺り寄せ、白い腕を見せた。着物が見せる柔らかな曲線は一切なく、ガッツリと引き締まった筋肉質な腕が現れた。手も大きく、指も長い。関節や手の甲の筋が、この肉体が男であると示した。それがちゃっかり、食器を入れ替える。南城の黒い無骨な陶器と、桜屋敷の白い陶器である。中に装った量は変わらない。変わるとすれば、茶碗の外見だけだ。
この行動に、南城は難しい顔をした。
「変わらないだろ」
「気分的なものだ」
量を告げる南城に、出した心遣いが気に食わないと桜屋敷がいう。褐色の肌には白い陶器が、白い肌には無骨な黒い陶器が渡る。身を乗り出した桜屋敷が、座り直した。
書道家は、墨が薄く滲んだ色合いの陶器で、炊き立ての米を食べる。日本人で、これに逆らえる者はいない。米を愛する民族の血を引く以上、炊き立てに抗えることはできない。一口、二口、米の旨味を噛み締める。料理人は、白米を煎った緑茶を一口飲んだ。玄米茶を入れた湯呑みをテーブルに置く。口の中を和風へ馴染ませてから、白米を口に含んだ。米の旨味がある。浸水と鍋の調理は成功したようだ。出来上がりに安堵しつつ、大皿へ箸を伸ばした。
誰も未開の地へ踏み入れようとすると「あ?」と桜屋敷が露骨に顔を顰める。
「ふざけているのか? 菜箸で分けろ!! 菜箸で!」
「家の中でくらい好きに出させろ! 重箱隅突きピンク!!」
「ここは俺の家だ!」
「作ったのは俺だ!!」
「お前のルールに従うなら、家主に従うのがルールだろう」
「料理人は俺だ! そーいうのは、作った側がいえる立場なんだよ。卑怯眼鏡が負け惜しみに屁理屈を捏ねるな」
「負け犬ゴリラはお前の方だろう。俺は新人に負けてはいない」
「お前は愛抱夢に負けただろ。愛抱夢に!」
「次こそは負けん!」
「はっ、どうだか! 負けた方が大人しくすっこんでいろ」
「二回も負けたとなると、お前の立場はなくなるな」
「お前だって愛抱夢に二回も負けたとなると、立つ瀬もなくなるだろーが」
「負け犬ゴリラと一緒にするなッ!!」
「次は俺が愛抱夢と勝負するんだ!」
ガタッと立ち上がり、ギャアギャア喧嘩をする。袖振り合うも多少の縁、こちらは顔を突き合わせれば、その度に喧嘩だ。ぐぬぬ、と互いに額を追突させて睨み合う。身の丈一八〇を超す身、一度立ち上がれば簡単に一発触発の状態へ持ち込むことができた。
『マスター。料理が冷めてしまいます』
ここでカーラが水を差す。カーラに溺愛する身、桜屋敷の優先度が傾く。「あぁ、すまない。カーラ」一瞬で怒りと敵意が消える。まるで潮が引いたかのようで、代わりに慈愛が満たされる。南城になど目も暮れない。席に座り、箸を持ち直す。南城が手を付けたところを確認し、自分の領域だと旗を立てる。ガッツリ二本の箸で具の肉をつまんだ。『今のマスターが体力を付けるのにピッタリです』「フフッ。そうか」桜屋敷の表情が柔らかい。
(餃子一つで大袈裟な)
ついでにニラもニンニクも入っていない。あるとすれば肉だけだ。「うん」南城が相手では絶対にしないであろう顔を、桜屋敷はする。頬に血の気が集まり、目を丸くする。口端も普段より緩く上がった。「うん、美味い」食べた一品へ贈る素直な感想も、南城へ贈ることは決してない。カーラを相手にしたからこそだ。
ますます南城は理不尽さを覚える。
「このロボキチ」
「あ? なにかいったか」
「耳まで悪くなったか、老眼」
「聞こえているぞ。タラシゴリラ」
「じゃぁ、聞き返すな。狸眼鏡」
「逃げ道を作らせてやったまでだ。ボケナス」
「だったら砂かけて埋めてやる。陰険眼鏡」
「ほざけ」
「そっちこそ舐めた口を叩くな」
瞬間、息をする間もなく冷戦状態になる。一気に空気が冷え、肺が凍える。常人であれば、緊迫した空気だ。それにも関わらず、桜屋敷と南城の箸は速く動いた。ご飯とおかずの回転が速い。いつだって、餃子はホクホクに炊き上がったお米と合う。
「中々に美味いな。これ」
「見かけたレシピを思い出して、適当に作った」
「料理人が適当に作るな」
「適当に作って美味いものほど」
ゴクン、と味わったものを飲み込む。
「料理人の才能があるってことだ」
「クソがッ」
「男の僻みほど、見てられないものはないな」
「自惚れも大概にしろ。誰がクソゴリラなんかに僻むか」
「俺に飯を作らせておいてか」
カチャン、と陶器と箸が重なる音がする。桜屋敷の眼鏡が曇った。
「効率を考えたまでだ。クソゴリラがッ!」
「素直じゃねーヤツ」
喧嘩を売る桜屋敷を、南城は聞き流す。いつかの逆だ。料理において、桜屋敷は南城より上手く作れる技術はない。「チッ」と舌打ちして、桜屋敷も食事に戻った。
男二人の手にかかれば、大皿の平たい餃子も瞬く間に消える。「飯」「三合しか炊いてない」「もっと炊いておけ。馬鹿ゴリラ」「最初から炊飯器で炊いてないヤツがいうな!」文句をいう桜屋敷に、南城が立腹して切り返す。効率性から炊かない桜屋敷は、顔を背ける。話に取り合おうとしない。一方的に労働を押し付けられているようで、南城は気分を悪くした。
ぐぬぬ、と唸りながら桜屋敷を睨みつける。ふと、時計の針が昼過ぎを指していることを見た。
(そういえば今日、エイプリルフールだったな)
復活祭より、嘘の許しを楽しむ日である。白米のお供が消えた中、ボーッと考える。桜屋敷は徹夜の疲れが響いているのか、無心で米を食べ続けた。茶碗が空になり、二杯目を注ぐ。『睡眠が一番有効です。マスター』「あぁ。腹が減ってはなんとやら、だろう?」『程々が一番だと思います』脳の疲労で会話をする桜屋敷に、しっかり釘を刺す。なんて気遣いのできる機械だろうか──などと、南城は決して思わない。寧ろ桜屋敷の体調へ懸念を強めるだけだ。
(そーだ)
ポンッと閃く。満腹で緊張が緩んだのか、覚束ない足取りで桜屋敷が席に戻った。コクリコクリと舟を漕ぎながら、箸で温かいご飯を口に運ぶ。
『マスター。食事が終わったら休憩を取りましょう』
「あぁ、そうだな。カーラ」
「薫。大事な話があるんだが」
深刻な顔で箸を置き、南城は指を組む。口元を隠し、キュッと脇を締めた。ぶつける真剣な眼差しよりも先に、桜屋敷は眠気が勝る。
「なんだ。馬鹿ゴリラ」
カーラの言う通り、あとで寝よう──そう決意をする。真面目に取り合わない桜屋敷に、南城は重々しくいった。
「俺」
眠気で前後不覚になる桜屋敷は、カフェインを取ろうと緑茶を手にする。思ったより苦くない。南城が話を続ける。
「妊娠したかもしれない」
「あぁ」
声色の条件反射──南城は〝S〟の大事な情報を伝えるときに、声のトーンを落とす──して、暫し。情報を整理したシナプスが脳を叩き起こした。
(はっ?)
今、なんといった? 妊娠、したといっていなかったか? 聞いた言葉を思い出す。「子どもができたかもしれない」と女関係のだらしなさで相談してくる言葉ではない。「俺」と主語が南城からの「妊娠した」だ。
桜屋敷の脳が、キャパシティを超える。
「ぶっ」
「どうする。薫、俺たちの子だって──認知してくれるか?」
『マスター。気をしっかり持ってください』
「ぐっ、げほっ! ごほ」
飲んだ玄米茶が逆流して、気管支に入った。噎せた喉で咳をし、痛みで理性を叩き起こす。途端、大量のクエスチョンマークが浮かんだ。(は?)南城は男である。真理だ。最近のニュースで、男が妊娠できるようになったことは? 特殊な手術を施さなければ無理である。総合科学誌の『Nature』で話題には? 否、なってはいない。
濡れた口元を、白い手首でグッと拭う。『マスターのバイタルが正常に戻りました』カーラの一言で、桜屋敷の脳を覆った眠気の霧が晴れる。
代わりに、目の隈が酷い顔色の悪さが身体を起こした。
「男が孕むわけあるかッ! ド阿呆」
「まぁな。でも、もし俺が想像妊娠なんてしたら、どうする?」
「戯けッ! なら筋肉から母乳が出るとでも? 阿呆らしい」
「出るかもしれないぜ? 母乳」
「だったら病院に突き出してやる。感謝しろ」
「想像妊娠だったら、できるかもしれないだろ」
「なら良いことを教えてやる。子どもを作るには、まず卵子と精子が必要となる」
「生物学上な」
「最低でも、生で精子を摂取する必要はある」
「それも何度も。いや、しようと思えば一回でもできるな?」
「馬鹿ゴリラに教えてやる。俺はナマでシたことは、一度もない!」
「ゴムに穴が空いてりゃできることだってあるだろ!? 俺は一度もないけどな。ゴムに穴が空いていたことなんて」
「雑魚が粋がるなッ! 空いてたら空いてたで、認知しろと押し掛ける女が大量に出てくるだろ」
「俺はそこまでクズじゃねぇ。そもそも、開けるときも傷が付かないよう、ちゃんと寄せて」
「詳しく説明するな!! 気持ち悪い」
「お前だって抱いているだろ」
「誰がお前の女事情を話せといった」
「そりゃごもっとも」
「で」
「は?」
「本当にできたのか。子ども」
グビッと緑茶を飲む。声は至って平然同然だ。頬杖を衝いた南城は、チラッと目を開けて発言者を見る。取り乱してはいない。冷静で、普段と同じ落ち着きを取り戻していた。きっと、南城の嘘に対する意趣返しだろう。エイプリルフールを仕掛けた本人は、面白くなくなる。つまらなさそうな顔をして、舌打ちをした。
「してねーよ。そもそも日付で気付け。馬鹿眼鏡」
「嘘を吐くなら午前中までだ。それくらいわからんのか。阿呆」
「誰が決めたんだよ。そんなこと」
「イギリスを中心としてだ。カーラ」
『諸説ありますが、【オークアップルデー】の〈午前中だけ国王へ忠誠を示すものを身に付ければいい〉という風習から輸入されたものではないか、と考えられています』
「ありがとう。カーラ。よって、午前中に嘘を吐き、午後にネタ晴らしをする習慣となっている」
「馬鹿らしい。今ネタバラシしたからセーフだろ。インチキ眼鏡」
「仮にも経営者がこれを知らんとは。語るに落ちたな」
「お前だって、この日に休みを取っているだろ」
「俺は作品を作る時間にも充てている。それに、先方と利益が一致しているからな。この日は外部に発注する暇もない」
「あー、そうか。その手の仕事も受けるんだったよな。お前」
「そういうことだ。意外と見栄えを気にする経営者が多いようで、なによりだ」
「身の丈に合ってなければ、意味はないと思うぜ」
「俺の懐が潤うんだ。問題は特にない」
「この狸眼鏡め」
「多忙な分、リターンは大きい」
よく見れば、心なしかやつれている。納期が重なったこともあり、複数の仕事を同時に片付けたのであろう。その心情を察し、南城は気遣いを見せた。
「なんだったら、飯。作ってやろうか? 忙しかったんだろ」
「必要ない。用があればお前の店に行く」
「そうじゃなくてだな。このアホ」
「あ? お前の方が阿呆だろうが。コロスぞ」
「うるせー。陰険眼鏡」
デレは流された。何事もなかったかのように、南城は茶碗の中を空にする。桜屋敷の眉間に、ギュッと皺が寄った。意識が戻り、腹が満たされたことで平常時の対応になっている。それでも睡眠不足の身体が悲鳴を上げている。ズキズキと痛む頭に、桜屋敷は罵倒を吐いた。
片頭痛を、掌底で米神を押して抑える。『マスター、早急に睡眠を』カーラが心配の声を上げる。炊いた鍋の中身を見た南城が、振り向きもせず文句をいった。
「全部食ってんじゃねーよ。腐れ眼鏡」
「黙れ。馬鹿ゴリラ」
声が響くだけで頭痛が強まる。桜屋敷は早急に寝たかった。南城に後を任せる。「あのな」「作った人間が責任持って片付けろ」そういって、限界に近い身体を引き摺る。「大丈夫か?」「問題ない」様子を見れば、寝室に着いた途端、桜屋敷は布団を前にして倒れていた。突っ伏して寝ている。(この、あのな)かける言葉も出ない。
「狸眼鏡が」
ボリボリと後頭部を掻いて、桜屋敷を布団に入れてやる。『ありがとうございます。ジョー。マスターは暫く熟睡に入ります』律儀にカーラが礼をいい、予定を述べる。「だろうと思った」とりあえず、南城は相槌を入れておいた。
食事に使った食器を洗って片付ける。余った材料は、桜屋敷の冷蔵庫に入れておく。また作ってやろう、との心意気だ。起きたあとはどうする。どうせ俺の店に来るのだから、問題ないだろう。南城は帰る仕度を始めた。
時計を見る。午後の三時までは時間がまだある。鍵は? あの人工知能がいるんだ。余計なお節介だろう。なにかが起きても、桜屋敷の自業自得でしかない。それ以上の介入を嫌がる男だ。
玄関近くに置いた自前のボードを抱え、南城は桜屋敷の家を出る。休みの男と違い、ディナーの時間帯に店を開く男だ。今から仕込みを始める必要がある。
ラインアートの魚が、地面と向き合う。ゴロゴロとウィールを鳴らして、南城は残り少ない休憩を楽しんだ。もう半日が終わる。
エイプリルフールの束縛から逃げ切った。〝Sia la luce〟のオーナーシェフに戻り、表の顔で営業を行う。二日の日付を跨ぐ頃には、すっかり素に近い裏の顔へ戻っていたのであった。