一番の優先順位
本州の主要な都市圏で開いた個展は、中々の成果をもたらした。新たな客層を新規に開拓するほかに、舞い込む依頼の幅も広がる。やはり人の集まる都市の集客は、計り知れない。(使い分けると収入は増えるか? ふむ)地元の企業やファンも大事な収入源だ。全国各地から来る依頼も馬鹿にできない。桜屋敷が考えると、カーラが計算をし終える。最先端の人工知能は、最適な助言を伝えた。『故意に広げると非効率です』猿猴取月、人間の欲で目先を見誤る行動に釘を刺す。己の力を過信して不相応に出ると、始末が悪い。「ありがとう。カーラ」愛機の適切なフォローに、緊張が和らぐ。自然とデレデレになった声が出た。今回の打ち合わせも、その個展で得た顧客である。個展を開いた都市圏へ出張に出て、たまたま入った施設で作品を見て、仕事を頼んだらしい。そして営業の読み通り、桜屋敷に一筆頼んだ商品は大きな反響を呼ぶ。先生のおかげで商品が売れました、と。無料のミーティングアプリを通して、感謝を伝えてくる。「社外秘ですから」とのことで纏めた購買層のレビューや感想など、こっそりと教えてもらうこともできた。中々ない機会である。桜屋敷も、こっそりとカーラに反響の内容を学習させる。「それで、先日謝礼の品をお送りしたのですが」営業が話を切り出す。カーラの学習に集中の大半が飛んだ桜屋敷は、反射的に応える。狸眼鏡の本領発揮だ。外面で体面を良くしたまま、打ち合わせを終える。完全にアプリを閉じ終えると、即座にカーラのメンテナンスに入った。簡易的なもので、カーラの学習を助ける処理である。ものの数分で終わらせ、次のスケジュールへ向かう。新規に作品を作る仕事が一件、入っていた。桜屋敷は多忙である。
多忙なものであるから、人間の脳を持つ桜屋敷にも忘れることがある。
最先端の技術で今も学習をし続けるカーラが、目の前の物体の情報を読み込む。記された住所の情報から、送り主と桜屋敷の関連性を告げた。『マスターが以前、仕事を引き受けた福岡の会社からです』続けて『そこのクライアントがマスターへ送った謝礼です』と補足を添えた。これで桜屋敷の脳が理解した。分離した情報を結び付け、原因と結果を把握する。とはいえ、これを堪能するほどの技術は持ち合わせていない。楽しむにしても、なにか一品は欲しい。しかし、それを楽しむほどの余裕は持ち合わせていなかった。
ボーッとした頭で考える。
(カルボナーラ。そうだ、カルボナーラだ。クソッ。最近、口にしていないな)
一度思えば、食べたくなる。ちょうど大仕事を片付け終えたあとだ。脳も疲れるし、身体も疲れる。これからスケートをするにしても、体力をつけるのが先である。とっくのとうに夜だ。この時間に荷物が来るよう、設定したのはカーラの配慮か。ギュッとデスクトップ型に入ったカーラを抱き締める。小脇に挟めるほどのサイズだ。スケートをしながらでも持ち運べる。カーラをカーラ専用のスケートボードに移す。書道の作品を書き終えたばかりだ。作業着を兼ねた着物と袴から着替えるか──えぇい、面倒だ。桜屋敷は却下する。どうせ着替えるのならば、カーラとデートしても相応しい格好を選ぶべきだ。袴を脱ぎ、陰に干す。愛機のアドバイスを思い出し、帯を選ぶ。全身を確認して、襷の外し忘れに気付いた。それも陰干しにした。
簡単ながらも身なりを整えると、カーラとデートを始める。仕事明けのスケートは、気分が良い。夜の近隣住人への騒音加害は気に留めない。学生時代に感覚が麻痺した。ただ滑るだけでも心地いい。ボードのカーラを大事に抱え、階段を上る。荷物よりカーラが大事だ。脇に抱えた荷物が潰れそうになっても、カーラを優先する。
目的の階に到着する。部屋の住人の都合などお構いなしに、桜屋敷は扉をノックした。ドンドン、と握り拳の底で叩き潰す。それくらいの大きさだ。挙動の細部に至るまで、部屋の住人への気遣いは一切ない。
金属製の扉越しに、バタバタと慌ただしい音が聞こえる。誰かとやり取りしているのか。話す声も聞こえる。歩幅は広い。間もなく、扉が強く内側へと引かれた。怒り心頭の南城である。普段と同じラフな格好だが、服装に乱れが生じている。シャツのボタンが数個、上から外してあった。女物の香水が香ることから、恐らく女を連れ込んだのだろう。顔を顰める桜屋敷に対し、南城は威嚇する。
「お前な!」
雄の個体が同性の個体を縄張りから追い出す行為と同じである。ゴリラの威嚇行動に一歩も引かず、桜屋敷はいう。
「作れ」
「こっちの都合も考えろ!!」
主語と詳細な説明もないまま、短縮に要点だけ濃縮して口論を行う。桜屋敷は迷惑そうに、南城は怒り心頭で噛み付き返した。「腹が減った」「知るかッ!」「さっさと作れ」「こっちの都合も考えろ!!」玄関で平行線の喧嘩を続けていると、南城の後ろから女が出てくる。街で声を掛けたのであろう。桜屋敷を見ると、げぇと顔を歪めて部屋の奥へ消えた。「この陰険眼鏡!」喧嘩に気を取られる南城は、その気配に気付かない。桜屋敷は蔑視を送った。
「ゴリラが身の程を弁えろ」
「こっちは休日なんだが?」
お前と一緒にするなと言わんばかりに、南城は喧嘩を売る。頭突きを仕掛ける気配を感じて、桜屋敷も睨み返した。頭突きは反射的にである。「ゴリラの休日なんか知るか」「人間様の都合も覚えろ。ロボキチ」「類人が人間様の言葉を喋るなッ!!」声を荒げて罵り合いを続ければ、南城のナンパした女がまた出てきた。完全に白けた顔をしており、私物を全て抱えている。最悪、白けた、聞いてない、帰る、との言葉を聞いて、南城が慌てふためく。
「あぁ! ごめんね。気分悪くしたよね。ごめんね、でも早く帰らせるから……。あぁ! 待って!! シニョリーナぁ」
情けない声が南城から出た。突然現れた桜屋敷を肘で攻撃し、自分の通るスペースを確保して帰る。聞いた話と違うものだから、怒り心頭らしい。桜屋敷の前でも関わらず、へなへなと膝から崩れ落ちた。
ナンパした女が完全に視界から消えた瞬間、復活する。
「この腐れ眼鏡!! せっかくデートを楽しんだところだったのに!」
「知るかッ! あの女も、お前が最低なヤツだと気付いたことだろう。双方ともに利益があるという話だ」
「ねぇよ! 貴重な休日を返しやがれ!!」
「なら女を連れ込むなッ!! 外だけにしろ。外だけに」
「俺のプライベート!」
「知るかッ!!」
繰り返し否定する。自分の休日を邪魔されることは嫌いだが、南城相手には全く遠慮もしなかった。ボードのカーラを抱き寄せ、脇の力を緩める。片手で荷物を持つと、南城に差し出した。
「とっとと作れ。メインはカルボナーラだ。酒はあるんだろうな?」
「だぁれがお前なんかに出す酒を用意するかッ! すかたん!!」
「なんだと!?」
「やるか!?」
「受けて立とう。その前に、さっさと作れ!! 馬鹿ゴリラ!」
「ったく、しょうがねぇなぁ!!」
喧嘩の延長で、桜屋敷の要求を受け入れた。激怒したまま招き入れ、部屋に戻る。リビングとダイニングとキッチンを兼ねた広い部屋には、女を連れ込んだ残骸が残っている。女物の香水も、室内に香りが残っていた。
「また料理で連れ込んだか」
毒を吐きつつ、テーブルに座る。客人気取りだ。桜屋敷から受け取った荷物を、南城は開封する。「飯を作れ」「これを使え」と指示した以上、食品に違いない。
「うるさいな。そっちの方が食いつきがいいんだよ」
桜屋敷の毒気に文句で返しつつ、差出人を確認する。見たことがない名前だ。企業名から、仕事の関係者だろう。大方、ドケチ眼鏡に仕事を頼んで、その謝礼で贈ったところか──と、南城は推察する。住所と商品名で見当を付けた商品が、箱の中にあった。
『博多明太子』である。同封したメーカーの説明書を読むに、正真正銘本家本元だ。ピリッとした辛味があり、それでいてたらこの旨味が良い。たらこ自体の質が良く、ブレンドした唐辛子が決め手となる。冷蔵で来たらしく、今からでも使える。南城が説明書を読んでいる間に、カーラが解説をしていた。それをひどく優しい眼差しで、桜屋敷が相槌を打つ。
(人に作らせやがって)
機械を溺愛する様子を見せられつつ、食材の味を確認する。(おぉ)スプーンで割れば、食感はプリッとしている。おまけにとても辛い。博多明太子の『レギュラー』は、辛味のないたらこを示すものではなかった。
『白米・玄米・五穀米のお供でしたら〈無着色〉の〈どっから〉がオススメです』
「フフッ、そうだな。ハハッ。あぁ。お前が料理に合わせやすいよう、それを選んでおいた。感謝しろ」
「たまには自分で作れ!! ったく、この」
辛さだと想像以上に辛くなるぞ、と告げる前に気付く。桜屋敷は既に、これ以上の激辛料理を平らげていた。南城の出した激辛ミートスパゲッティすら、デリシャスに平らげていたのである。辛さに対する気遣いは不要だ。
(問題は、味か)
単純に考えるならば、素材の味を活かす方が早い。脅威の激辛パスタだって、味が良いからこそ完食された。「ふむ、デリシャス」キュッと真っ赤に腫れた唇をナプキンで拭いながらの一言は、南城の腕を認めてのものだ。嫌がらせで仕込んだ当人にとっては、雪辱の一面も大きく持つものだが──そこは料理人の名誉と受け取っておこう。辛味をマイルドにさせないのであれば、乳製品を使わない方がいい。だが桜屋敷の望む【カルボナーラ】は、イタリア本場のものではない。日本人がアレンジして、それが日本の全土へ流通したものだ。
冷蔵庫から生クリームを取り出す。濃厚さを重視するなら、生クリーム一択だ。桜屋敷も、淡白より濃厚さを重視する。使う粉チーズは、判断に迷うところだ。(コイツを使うのは、癪だな)ホイホイ使うものではない。勝手に訪れた幼馴染相手なら、安く流通している市販品で充分だ。味に見劣りはしない。メーカーが本物へ近付けて、日本人の好みに合わせている分、保存法に苦労をしない。ただ、日付が日付だ。チラッと時計を見て、溜息を吐く。
ハードタイプのチーズを選ぶ。
カーラと穏やかな時を過ごしていた桜屋敷は、立ち上がった。
ツカツカと窓辺に近付き、勢いよく窓を開ける。春の夜風が室内に入り込んだ。海に囲まれた小さな島国だから、潮風が微かに混じる。
「香りが飛ぶぞ」
「換気をしてやっているんだ。有難く思え」
「香りが落ちても文句をいうなよ」
はぁ、と溜息を吐きつつ、チーズグレーターで下ろしていく。多面型で、一面ごとに刃の種類が異なるタイプだ。女性受けが良く、南城の筋肉の凄さも同時にアピールする。女性を自分へ夢中にさせる必殺兵器だ。それを使う。ぶわっと室内に広がるチーズの香りが、潮風に混ざった。王様を冠する名は、質を裏切らない。ナッツのような香ばしさがあり、乾燥したパイナップルに近いフルーティーな香りもある。熟成期間はそれほど深くないのか、香り自体にスパイシーな風味はない。
女物の香水の残り香が、完全に消え去る。広がるチーズの香りに満足して、桜屋敷は窓を閉めた。密室の状態になる。南城の筋肉は伊達でない。
計量器に乗せたボウルの中で、チーズが必要な分だけ摩り下ろされた。匂いが消えないよう、即座にサランラップで蓋をする。(俺も一口食べたいからな)明太子は少し多めに、薄皮を剥く。二本は流石に多い。残りの半分は、手間賃として頂くか。切った半分を皿に移し、サランラップで封をする。手際が良い。包丁の背で身を削ぎ、小皿へ分けると同時に身を解した。
ニンニクを適量分みじん切りにして、オリーブオイルで炒める。
「腹減った」
「もう少し待て」
弱火でじっくりと火を通すものだから、どうしても腹が減る。熱したニンニクとオリーブオイルの香りは、脅威的だ。増幅する食欲に抗えない。
平然と無関心な態度を装いながらも、桜屋敷は生唾を飲む。『マスターは非常に空腹です』カーラが南城を急かした。「冷凍食品みたいに簡単にできない、ってお前のマスターに伝えておけ」乱暴に南城が言い返せば「このッ! カーラになんて口の利き方をするんだ!?」と桜屋敷が憤った。南城が即座に叩き返す。「お前はモンスターペアレントか!?」「カーラに対しては丁寧な対応を心掛けろ。いや、話しかけるな。悪質な影響を受ける」「お前な!!」散々な言い様に、南城の怒りも増す。ニンニクの香りが増し、焦げるより先に白ワインを投下した。きっかり大匙一杯分、グラス一杯分ではない。南城が使った料理酒をジト目で見る。「これは飲むものじゃない」例え飲酒用に販売されようが、料理酒として用いる以上料理酒だ。頑なに譲らない南城に、桜屋敷は素直に引き下がる。例え犬猿の仲で幼馴染だろうが、料理人としての知識と腕は信頼しているようだ。
コンソメ顆粒を加え、茹でるパスタの茹で汁を使う。パルミジャーノ・レッジャーノを摩り下ろす休憩中に、用意していたものだ。フライパンの横にあるコンロで、グツグツとパスタが茹でられている。そこから、おたまで茹で汁の三分の一を掬い、フライパンに入れる。オイルを【乳化】させる工程だ。ペペロンチーノでも必要な工程である。茹で上がったパスタとオリーブオイルをベースとしたソースを使うのであれば、欠かせない手間だ。これだけで味の馴染み方が違う。一般家庭で起きやすい、水っぽさや油っぽさもなくなる。料理人として、手間暇を惜しまない。ぐつぐつ煮えるオイルの中に白っぽさが見えてきたら、生クリームと黄身を入れる。これもチーズを磨る休憩中に用意をしたものだ。
できる男は、手際も良い。桜屋敷は料理が出来上がるまでの時間を使って、雑務をこなす。できる形でスイッチを入れたいのか、高く一つ結びをしていた。手持ちのデバイスでポチポチと、明日のスケジュールも確認する。事務的なものはカーラが一通りこなしてくれるので、後は確認するだけの作業となった。
(うん? あぁ、忘れていたな)
どうも営業や仕事のイメージが強くなる。去年はカーラの祝いの言葉で済んだような気もする。その日に外部からの仕事が立て込むものだから、忙しい印象しか残らない。
時計を見る。意外と時間が経っている。料理の工程も、最終段階へ近付いた。
混ぜながら温め、残りの材料を全て入れてゆっくりと掻き混ぜる。ソースが出来上がると、火を止めた。パスタの水気を切り、茹で上がったものをフライパンに入れる。充分にソースを絡めると、皿を用意した。ステンレスの洗い桶に入っているものは使わない。張った水に浸けている以上、洗う必要がある。
新しい食器を出し、そこへパスタを盛り付ける。イタリアンシェフであるから、盛り付けに気を遣った。和風の味付けをしたから、きざみ海苔を乗せる。一人暮らしの男のレシピを簡単に作ったときに、余った材料だ。明太子との食感を考えて、敢えてベーコンは入れない。〈カルボナーラ〉と〈明太子〉の指定があったのだ。文句があるなら、旨さでねじ伏せる。
シェフの経験と勘とセンスで作った【カルボナーラ明太子パスタ】の出来上がりである。
それを調理台に置いたまま、出来立てを出さない。洗った台拭きを携え、桜屋敷の待つテーブルへ向かった。まず、最初にテーブルを綺麗に拭く。察した桜屋敷が、肘を離して身体を起こす。背筋をまっすぐ伸ばし、両手を袂の中に隠した。無言で腕を組む。次に、綺麗にしたテーブルの上にランチョンマットを敷いた。テーブルマナーに従い、フォークを置く。続けて氷の入ったグラスを置き、冷蔵庫で冷やした水を入れた。本来白ワインが入っていた、緑のボトルである。見た目を選んだのだろう。ピッチャーの代わりに、ワインが入っていた瓶を使う。
トクトクと、細長いグラスに冷たい水が入った。
「普通酒だろう」
「無断飲酒常習犯は黙ってろ」
閉店後に訪れて酒を飲むなど、常套手段だ。その自覚はあるのか、桜屋敷は言い返す。「営業中は払っているだろう」「客がな」接待の場では、桜屋敷が奢られる側だ。店が休みの昼間でも、桜屋敷は払わない。自腹で出すなど、滅多にないことだ。自分の分にも、水を注ぐ。飲み物を用意したあと、ようやくパスタを運んだ。
コトン、とテーブルにパスタが置かれる。ニンニクとオリーブオイルの風味の他に、バターの隠し味がある。丁寧に生クリームと黄身で作ったカルボナーラソースであり、要望通りだ。ゴクリと生唾を飲み込む。南城が目の前にいる手前、早急にがっつかない。湯気で眼鏡が曇る。特殊なコーティングで徐々に視界が晴れるものの、膠着状態だ。パスタが冷めない限り、レンズは延々と曇っては晴れるを繰り返す。しかしながら、視力が悪いので眼鏡を外すことができない。
空腹が身体を突き動かす。仕事で疲れた身体と頭で、これ以上の我慢はできない。
長い髪を耳にかけ、手にしたフォークで巻き付ける。しっかりと明太子の粒は離散しており、それぞれパスタに絡み付いている。期待値は高い。大きくフォークの切っ先に巻き付けて、大きく口を開いた。
巨大な一口を、口に含む。(旨い)普段と異なる材料を使っているものの、求める味へ正確に応えている。濃厚なクリームも、スーパーに並ぶ卵の黄身も、それほどしつこくない。動物性のまろやかさの中にあっても、ピリッとした辛味が頭角を現す。黒胡椒の代用だ。ベーコンがないのは、肉と魚の共存が難しいためだ。元より、ソースと味を重視する。パスタも合格だ。条件を満たす以上、文句はない。
奥歯で噛み潰し、余すことなく咀嚼して味わう。やはり見立てに間違いはない。己の予想が的中した感覚に自尊心が高まり、ささやかな休息を楽しむ。そんな一人で楽しむ桜屋敷の対面に、南城が座った。二人分のランチョンマットとフォークとグラスがあることから、想像できたことである。だが、その事実を見たくない桜屋敷は敢えて無視をしていた。
寛ぐように座り始めた南城に、桜屋敷はゲンナリする。多くパスタを巻き付けたフォークが、皿へ傾いた。
「シェフなら先に片付けろ」
「ここは店じゃない。俺の家だ。文句があるなら出てけ」
「決め手となる食材を持ってきたのは俺だ」
「お前が勝手に持ってきて、押し掛けてきたことだろ。すかたん!」
「フンッ!!」
テーブルの下で足の踏み合いが起こった。南城が先に仕掛け、桜屋敷が避けて逆に踏み潰す。的確に爪先から足の甲を狙った。神経が集中しているものだから、痛いものは痛い。「このどてかぼちゃ!!」「間抜け!」「すかたん!!」「低能ゴリラ!」等々と罵り合いながら、一通り喧嘩をした。終了の合図は、テーブルの揺れである。グラスの中身が、パスタの中へ零れかけた。それを咄嗟に防ぎ、喧嘩が中断となる。
グラスを掴んだ桜屋敷は、そのまま水を飲む。南城はテーブルの足を片足で抑えたまま、クルクルとパスタを巻き付けた。桜屋敷と違い、雑である。自分で作った料理だから有難みがないのか。食材と生産者に感謝はすれども、他人が作った料理ほどの礼儀正しさはない。あっ、と大きく口を開け、一口で頬張る。もぐもぐと咀嚼し、完成した味を見た。
(うん。思った通りの味は出てるな)
料理人の腕は落ちていない。それに安堵する。というより、あの小うるさい桜屋敷から文句が出ていないのだ。この既に示された事実を考えれば、腕が落ちていないことは明白だ。グラスにある水を半分まで飲む。水分を補給してからもう一度、パスタを食べた。
クルクルとフォークを中心にして、パスタの層を作る。
「それで? ようやく仕事が一段落ついたって顔だな」
「それはお前もだろう。女をたらしこんで楽しもうとしていたところと見える」
「久々に空いた休みくらい、どう過ごそうと俺の勝手だろ。お前が来なければ、完全に回復していたところだッ!!」
「ほざけ! ここが外国であれば、お前は今頃美人局《つつもたせ》なりスリの被害に遭っていたところだ」
「生憎とここは日本だッ! それに、そんな犯罪に捕まるほどアホじゃねーよ」
「どうだか。脳筋ゴリラにそれほどの知能があるのか、疑問だな」
「あのなッ! 仮にもレストランのオーナーシェフがそんな」
反論の根拠を持ち出そうとしたときに、ふと止まる。以前テレビで見かけたニュースを思い出した。詐欺の被害で加害者となった人物が、レストランのオーナーシェフをしていたという話だ。肩書きだけで論を反することは、全くの証拠にならない。
止めた手を動かし、固く閉じた口を開けた。
「とにかく! 俺はそんなのに引っ掛からない」
「どうだか」
「お前こそ、引っ掛からない自信があるのか?」
「ある」
「そーかよ」
根拠もなく自信に溢れた発言をする桜屋敷に、南城は呆れる。そのとき、時計の針が動いた。カチッと一秒のズレもなく、カーラが口を開く。『マスター、誕生日おめでとうございます』今年で何歳になりました、と祝福と現在の年齢を告げる。これはAIが自律して考えたことなのか、それとも所有者であり創造主である桜屋敷が設定したことなのか。ただただ目尻を垂らして「ありがとう。カーラ」と微笑んでいる。(マジかよ)南城は合わせてドン引きした。
「げぇ。機械に祝ってもらうとか、ありえねー」
「機械じゃない!! カーラだッ!」
「どっちにしろ同じだろ。カーラに祝われて、そんなに嬉しいか?」
「当然だろう。カーラは俺にとって、大切な存在なんだ。どこぞの馬鹿ゴリラなんかと一緒にするな」
「それはこっちの台詞だッ!! だったら、なおさら俺ん家《ち》に来るな! せっかくの休日を、お前」
「腹が減ったんだ。仕方ないだろう」
「どこがだ! こっちはいい迷惑だ。ったく」
「デカい仕事が片付いたんだ。美味い飯くらい食いたくなるだろう」
カチッと音が鳴った。ステンレスの切っ先と白い陶器がかち合う。フォークの刃先をパスタ皿の緩やかな底に付け、クルクルと回した。残るパスタが巻き取られる。作った小さな一口を、ゆっくり持ち上げた。
「久々のカルボナーラくらい、食わせろ」
パクッと一口で食べられる。そういわれると、返す言葉もない。料理人の冥利に尽きる。「そ、そうか」素直に味を認める桜屋敷に、南城は動揺する。自然と声が詰まり、皿を目指したフォークの狙いが逸れる。ガツンとパスタ皿のカーブに突き当たった。「フンッ」と当の発言した本人が鼻を鳴らす。一瞥をしようとしない。その態度に、南城はムカッとした。
「この守銭奴眼鏡。だったら、金を払って注文をしろ」
「今日は店が休みだろう。どっちみち、店も閉まっていた」
「だからって閉店したあとに来るな」
「開いてない方が悪い」
あぁいえば、こういう。埒が明かない。平行線を辿る会話に、合流点を作ろうとしない。あるとすれば〝S〟か『愛抱夢』に関連したときのみだ。「この守銭奴眼鏡」「低能ゴリラが口を開くな」「そっちこそ開くな。ロボキチ」「地球の酸素を思うなら黙っていろ。ぼんくら」「ならお前が息をするな。卑怯眼鏡!!」ピッと親指で首を切る真似をした。
怒りながら南城は立ち上がる。一説によれば、肉体の酸化で老化が進むらしい。パスタの残りが少なくなる。時計回りにフォークへ巻き付けるが、食べる気は起きない。どうも、最後の一口が名残惜しい。
(どうするか)
次の予定を考えていると、ゴトンと音がする。重い瓶が置かれたような音だ。視線をやれば、黄緑色のボトルだ。明るい。桜屋敷の好むワイナリーの柄はなく、エメラルグリーンの民族的幾何学模様をラベルの下に貼ってあった。注視すれば、連なる菱形は魚の鱗のようにも思える。
褐色の手にあるワイングラスが二つ、テーブルに置かれる。桜屋敷と南城の前に、それぞれ一つずつだ。シングルアクションのソムリエナイフが、瓶のキャップシールを剥がす。そこから露わになったコルクの中心へ、金属の螺旋を突き刺した。垂直にスクリューを刺し込み、軽く回しながら引き抜く。自慢の筋肉だから、容易くできた。無論、桜屋敷にだってできる。シングルは筋力を重視し、ダブルアクションは女性の力でも開封させた。
密封が解かれると、摘み立ての若草のような匂いが広がる。続けて、プラムやサクランボ、マンゴーに似た香りも漂う。最後に、熟成に使った樽の香りもした。柑橘類や南国フルーツの風味は、弱い。針の穴に糸を通すように、繊細に拾わなければわからない。その年の生産や土壌が異なれば、出来上がりも違った。
好みから遠いワインの登場に、桜屋敷はムッとする。
これに南城が文句をいった。
「嫌なら自分で持ってこい」
「気の利かんゴリラめ」
「そもそもお前が突然来るから悪いんだろ! 人に料理まで作らせやがって」
「俺は最適に食べられる手段を選んだまでだ」
「そーかよ。味は悪くないぜ」
「ハズレを引いたら神経を疑う」
「そのときは店を畳むレベルだな」
踏ん反り返る桜屋敷を適当に流し、桜屋敷の文句に軽口で叩く。今は店を畳む気など、一切ない。それほど有り得ないことだ、と悪態の中で返した。
桜屋敷のグラスに明るいマスカット色の液体が注がれる。まさに白ブドウの皮を抽出して作ったかのようなワインだ。トクトクと瓶の口から流れ、グラスの半分まで満たす。桜屋敷はまだ手を付けない。南城が自分のワイングラスに注ぎ、瓶を置くまで待った。
半分まで減った黄緑色の瓶が、テーブルに置かれる。南城が座る気配も待たず、桜屋敷は細いグラスの首を抓んだ。
軽く回して、香りを見る。開封時に広がった匂いと変わらない。クイッと一口飲めば、過去に飲んだことを思い出した。無意識に手元を見る。まだ皿にパスタが残っている。
最後の一口をフォークで全て絡め取り、一口で頬張った。
パスタを完食する桜屋敷の前で、南城も残った分を食べる。手を止めた回数が多い分、まだ数口残っている。クルクルと回したフォークで巨大な一口を作り、一気に頬張る。冷めてもなお美味い。料理人の勘とセンスは健在だ。食べ盛りの学生みたいに数回で咀嚼し飲み込んで、また一口食べる。がっつく食べ方をする南城に、桜屋敷はドン引きした。
気分が削がれ、罵声を吐く。
「人間様のマナーを覚えろ。原始人」
「女がいないなら、どのように食べても俺の自由だ」
「ワインが不味くなるんだ。ド阿呆」
「だったら上品なレストランへ行け。ドケチ眼鏡」
「断る。値段が高い。それに客に奢らせた方が安上がりだ」
「客が聞いたらキレる話だな。それ」
「俺に仕事を頼んだ以上、向こうが払うのが当然だ」
「相変わらずの守銭奴だな」
「お前も女をたらしこんでいるだろう」
「や」
「聞き飽きた」
「あっそう」
会話が終わる。同じやり取りは双方ともに飽きていた。南城はパスタを食べ、桜屋敷はワインを飲む。もう一度グラスを揺らし、香りを確かめる。開封時や注いだときと比べ、落ち着いている。味を確かめれば、確かにあのとき飲んだものに近かった。チラリとワインを見る。ラベルの片面しか見えない。細長い首を掴んで、正体を記したラベルを真正面から見る。ワイナリーを示す英字の書体は、確かにあのロゴと頭文字が一致した。(まさかな)生産年は、自分の生まれ年ではない。しかし、その出来事を思い出すには充分な年数だ。きっかり現在の西暦から、その年の西暦を引く。ちゃんと該当する年数だ。確信を半分得て、桜屋敷は切り出す。
「このワイン、懐かしいな。飲んだのはこれより安いワインだったが」
「お前が選んだんだろ。これが一番安いからってさ」
「ドパドパ使う量とバイト代を考慮してやったまでだ」
「余計なお世話だッ! でも、あの頃はまだ買えたよなぁ」
「今は周りの目が厳しいからな。そう簡単には買えまい」
「親の携帯使って課金とかは、ザラにあるらしい」
「デジタルネイティブらしい悪さの仕方だ。そっちの方が懐に痛いが」
「絶対されたらキレるだろ」
「当然だ。当分は使わせてやらん!」
「昔は親の金使って、スケートの部品やピアスを買っていたのにか?」
「それとこれは話が別だ。課金するにしても、先に親に打診してから買う」
「ロボキチめ」
「電気代も食うからな。怒鳴られた」
「珍しいな、お前んとこの親が怒るなんて」
「今までにない額だったからな」
「あぁ」
「そのあとは特にいわれてない」
「本当、自分の両親に感謝しろよ。お前」
「親の金でここまでできたからな。自覚はしている」
──人工知能にしろ、最先端の技術へ触れるには教育の初期投資が必要だ。その投資の額が高く、子の興味がある方へ広く対応したからこそ、今の桜屋敷の知見の広さがある──。その辺りの家庭環境による教養や知識の差は、桜屋敷も自覚していた。その対極にある南城は、家が裕福ではないながらも、自分の力で技術を磨いて店を持った。育った背景は異なり、進路も異なる。それでも、結局はどこに行っても鉢合わせた。
犬猿の仲で腐れ縁で幼馴染でも、物理的に距離が遠く離れても、磁石のようにすぐ引っ付きあう。時計の針が動く。腹の底で時間を気にした南城は、覚悟を決めた。
グッと目を瞑り、バレないように深呼吸をする。緊張を隠したあと、なんでもないように尋ねた。
「そういえば」
続きを放つ間もなく、桜屋敷が即答する。
「なんだ」
畳みかける口調にバレたかと焦りつつ、南城は平然を装おう。
「お前、明日仕事入っているんだっけ? 売れっ子は忙しそうだもんな」
「あぁ、明日俺の誕生日な分、ご機嫌を取る必要が──あぁ、今日だったか」
「朝にならない限り、正確には明日じゃないだろ」
「それが使えるのは午前二十五時から二十六時までだ」
「深夜の放送時間帯を示す時間帯じゃねーか」
「それ以外に使うことはないだろう」
「締め日とか。あぁ、それだと午前・午後表記だったっけか」
「ちゃんと覚えておけ。馬鹿ゴリラ」
「うるせぇな。いいから、とっとと目を閉じておけ」
「断る」
「ここは素直に頷くとこだろ!?」
「好き好んで従って堪るかッ! ボケナス!! 要求を飲んでほしくば、見返りを出すんだな」
「クソッ! この守銭奴眼鏡め。俺が休みを割いてまで、わざわざ手料理と酒を振る舞ってやっただろ」
「知らんな」
「おい!! お前が来たせいで、今日ナンパした女が帰ったんだぞ!?」
「それはお前の自業自得だ。いずれ帰ってただろ」
「少しはお楽しみってのを楽しみたかったんだよ!! この腐れ眼鏡!」
「なら俺がお前の要求を飲む必要はない!」
「あるんだよ!! いいからとっとと目を閉じていやがれ! 卑怯眼鏡!!」
張り合うかと思えば、そうでない。「はぁ?」と桜屋敷は顔を顰めたが、南城の顔は険悪なままである。無遠慮な質問にも答えようとしない。「何故だ」「なんでもだ!」強い拒否反応だ。こうなると面倒である。「チッ!」と舌打ちだけをした。「仕方ない。貸しは貸しだ」南城と同じように腕を組んで目を閉じる。「だったら、お前は俺に数えきれないくらいの借りがあるだろ」と南城は胸を張ったままいう。会話が途切れる。チラッと薄く目を開ければ、桜屋敷は要求を飲んでいた。これに南城が驚く。本当にするとは思わなかったし、自分自身にも問いかけているからだ。
(とはいえ、他に手は思い付かない)
真剣に考え込んでしまう。なにせ、カーラに一番槍を奪われたのだ。人間として、機械に先手を打たれるのは気に食わない。ならば、それができないことをやればいい。では、なにがある? どうせ既に肉体関係があるのならば、それに接するものをやればいい。
自然と心臓が速くなる。鼓膜にまで心臓の動きが響き、他の音が一切聞こえなくなる。組んだ腕を解き、テーブルを掴む。片手の行き場がないので、桜屋敷の座る椅子の背凭れを掴んだ。身体を屈める。前進する足音に動じなかった白い眉間に、ピクリと皺が寄る。その反応に先のことが大体予測が付きながらも、南城は距離を縮めた。
息がかかる。その瞬間、ギッと桜屋敷が目を開いた。古生物の代わりに怒りを閉じ込めた飴色の琥珀が、南城を即座に威圧する。
「なに近付いている。低能ゴリラ」
「ぐっ。か、カーラにはできないことをやろうとしてだな」
「必要ない。カーラが祝ってくれるだけで充分だ」
「はぁ? 俺のは要らないっていうのかよ」
「先のワインだけで充分だ。そうだな、ぼんくらの要望に応えてやるとするなら」
グッと南城の襟首が掴まれる。明るい飴色の琥珀の瞳が視線を外したかと思えば、喉元から息苦しくなる。ゴツンと額がかち合った。鋭い飴色の琥珀が、栗色の瞳を真正面から見据える。
「とっととケツの準備をしてこい。そうしたら抱いてやる」
「あのな。俺が年がら年中ヤりたいと思うなよ」
「なら女を口説くのは、どう説明する」
「可愛い女は口説かないと、失礼だろう?」
「哀れなゴリラだ。そこまで縋りつくか」
「そういうつもりで俺は女をナンパしているわけじゃない! 純粋に、女の子と楽しい時間をだな」
「全学年の女を抱いたと聞いたぞ」
「あれは誤解だ!! 全学年っていっても、あれは一学年上と下で、勝手に噂が広がって、あっ」
目を点にする。策士策に嵌まるとは、こういうことだ。鋭い目付きがさらに鋭くなり、下がる口角と固く閉ざした歯が、ジト目の度合いを示す。桜屋敷の不快度が上昇した。「だったら、なおさら教えてやる。さっさとケツの準備をしてこい!!」軽蔑と同時に命令をした。これに南城が反論する。「お前が思っているほど楽じゃねぇんだよ! ケツの準備は!! それに。その間に寝落ちするだろ」瞼を閉じて視線を遮断すれば、桜屋敷の確固たる返事が返る。「そうだな」思わず(返すなッ!!)と南城は叫びたくなった。聞きたくなかった返事である。それでも準備をしてしまう自分が憎たらしい。
桜屋敷の力が緩まる。それを見計らって、南城は離れた。掴まれたシャツの襟元が崩れている。反射的に直し、身なりを整えた。渋々と用意を始める。
丸まった巨大な背中を見て、プイッと桜屋敷は視線を逸らした。
「まぁ、帰ったら抱いてやらんこともない」
「お前な!!」
南城が振り返って勢いよく突っ込むと同時に、桜屋敷は背を向ける。空になったワイングラスに酒を注ぎ、クイッと一気に飲んだ。一二〇ミリリットルの白ワインが、桜屋敷の身体に吸収される。これで酔うことはない。食事を終えたテーブルから離れ、南城家の電力を吸収した最愛の愛機に近付いた。
「さぁ、カーラ。夜ももう遅い。一緒に寝ようか」
「食うだけ食って、人ん家で寝ようとするな!! くそっ、潰れた分くらいは返せ!」
「ケツの準備をしておけ。起きたら少しくらいは相手してやる」
「最後までしろ!」
「明日が早いんだ。睡眠を優先するのは当然だろうが。ボケナス」
「だからって放置とかはあり得なさすぎるだろ!? 返せ! 俺の時間!!」
「帰ったら続きをしてやる」
「それまでソレで過ごせってか!? ふざけるなよ! お前、本当に……このッ、卑怯眼鏡!」
相手もせずベッドへ向かう桜屋敷に、南城は悲鳴に似た怒声を上げる。明日は午前中から打ち合わせと接待の予定があるのだ。スケジュールに暇はない。書道教室の日も被っている。やることは多い。
広いベッドで、ボードのカーラと一緒に眠る。メンテナンスをする時間はなかったが、早朝に帰って早急にメンテナンスを行おう。今は寝ることが大事だ。睡眠を優先する。ほろ酔い気分であった分、寝付くまでが早かった。
(って。そもそも食後すぐだとヤバいから、結局明日の夜までお預けだろ)
準備をしようとして時間を逆算した南城が、正気に戻る。ベッドの様子を見れば、大切なカーラを抱いて桜屋敷は熟睡していた。(くっ)機械より優先度の低い我が身に、涙が零れかけた。
無言で道具の準備だけはする。朝のルーチンの時間を早めて、空いた時間で準備を進める。ついでにその日一日の食事は、固形物を控える必要があった。腸の蠕動運動をさせないものであれば、口にしても平気だろう。
徹底した食事管理が必要となる。(なんだって、こんなヤツのためなんかに)悔しさと悲しさと悪態は出るものの、自分から折れたことだ。どうしようもない。
他にベッドはないので、同じベッドで眠る。桜屋敷はカーラを抱いて幸せそうだ。南城は幸せではない。一人だけホクホクしているのが悔しくて、南城は布団だけ自分の方へ引っ張った。
「おやすみ」
誰も悔しさと悲しさの涙で濡れた声を聞いてはいない。南城も桜屋敷と同様、寝た。夜が過ぎ、朝日が昇る。
予想通り、桜屋敷は南城より遅くに起きたのであった。