悪縁契り深し

〈料理〉が日常生活の延長にない人間にとって、〈料理〉に携わる全ての工程にその都度時間と労働を支払わなければならない。空の冷蔵庫を開いて、桜屋敷はポカンとした。仕事が終わった直後もあり、体力も気力も尽きる寸前だ。どうにか腹の虫で冷蔵庫まで這いずったものの『マスター、危険です』とカーラが警告した通り、桜屋敷書庵の冷蔵庫の中は空っぽだった。『食品を購入した履歴を辿ると』『現在冷蔵庫の中は』カーラが計算した過程は、きちんと聞いていた。それでも腹の虫が桜屋敷の身体を冷蔵庫まで引き摺る。「うん、うん」大きな案件を終えたばかりの桜屋敷は、生返事をしていた。この結果が、こうである。硬直した思考が、徐々に呼吸とともに活発な電気信号を取り戻していく。期待を裏切る冷蔵庫を前にして、桜屋敷は動き出した。今から自力で作るなど、言語道断である。『現在のマスターの体調を考慮すると』『非常に危険です』冷静で完璧な計算を行うAIに、桜屋敷は頷く。莫大な信頼を愛機に寄せていた。右手のバングルにいるカーラが発する通り、今のコンディションで料理をすることは危険だ。高い確率で料理が失敗する。ここは〈料理〉に慣れた人間にやらせた方が、失敗の起こる確率が低い。
 ──と、そこまで考えてるうちに桜屋敷は書庵を飛び出した。頭で結論を出すよりも先に、身体が動く。どんなに理知的で完璧なAI書道家やAIスケーターの面を持つとはいえ、性根の方は変わらなかった。幼い頃同様、頭で結論を出すよりも先に手が動く。その主な被害者である南城は、深夜に訪れた幼馴染に不機嫌な態度を見せた。
「深夜にいきなりなんだ。こっちはお前と違って、朝早いんだぞ」
「休みの日に休まない方が悪い。どうせ日付が変わるまで女遊びをしてたんだろ」
「人が寝てる時間帯に来る阿呆がいるかって話をしてんだよ! こっちは!! 女と遊ぶのも、休みのうちなんだよ。陰険眼鏡」
「知るか。だったら、俺が腕が鈍ってないか見てやる。さっさとあるもので作れ」
 深夜の玄関先で、桜屋敷は腕を組んで踏ん反り返る。我が物顔で起こした癖に、悪びれる様子も一片もない。しかも集合住宅なり住宅が周りにある中で、犬猿の仲である幼馴染が相手だ。こんな時間帯に大声で喧嘩するものなら、確実に近所迷惑になる。近隣から苦情が出るのも、火を見るより明らかだ。南城は積もりに積もった不満を胸の奥に溜め込んで、二酸化炭素と一緒に吐き出す。その時間はとても長く、吐き出した息とともに出た声も低く重いものだった。
「入れ。食ったら帰れよ」
「寝起きの状態でどこまで作れるか見てやろう」
「何様だ。テメーは」
「時間も時間だ。なにか軽いものを」
「ここは店じゃねぇんだぞ!!
 気持ち小声で、南城は声を張り上げた。桜屋敷も多少──深夜の沖縄はシンと静まり返って声が響くこともあって──声量に配慮しているものの、態度自体に配慮は見せていない。桜屋敷は南城の怒りを無視し、そんな桜屋敷に南城はイライラする。しかし、そんな相手を外に放り出さず、中に入れたのは紛れもなく自分自身だ。
 どんなに喧嘩しても縁が途切れることもなく、若い頃は悪い連中みたいにつるんだり、一緒にヤンチャしたり、遠慮なく相手に不満をぶつけては相手が同様の感情で噛みつき返したりすることに、一種の安堵を覚えたりもする。
 悪縁の縁を繋ぎ続ける縄が腐っても、未だにそれが千切れることはない。悪銭身に付かずならぬ【悪縁契り深し】だ。当の南城は泡銭は一夜のうちに使い果たし、桜屋敷は黙々と資産形成に回す。銭の使い方も対称的で趣味も合わないというのに、悪縁だけは続く、続く。
 襲い掛かる重い睡魔で寝たいところを堪えて、南城はキッチンに立つ。桜屋敷は食事をする席に着いて、仮眠を少し取った。桜色の長い髪がテーブルに広がる。調理をする場には残った素麺と、鶏のひき肉に長ネギの残り、生姜の使いさしに人参、しいたけ。いずれも「いつか近いうちに使うもの」の一品が並んでいた。桜屋敷宅の冷蔵庫と比べれば、南城宅の冷蔵庫は新鮮な食材で溢れている。脳は眠気であやふやで、身体に染み込んだ習慣で南城は調理を行う。長ネギは微塵切りにし、鶏のひき肉や生姜や酒やらと一緒に一回きりのポリ袋に入れる。相手は客ではないし桜屋敷であるので、全て感覚と勘で調味料を図る。調理に使う食材のグラムやミリリットルも、いうまでもない。
 自慢の筋肉が脊髄反射でギュッギュッと中の食材と調味料を肉に刷り込み、肉団子ができるペースト状に仕上げる。反射的に仕込みを終えたしいたけと人参を、コンロの近くに寄せた。南城が半分寝ながら調理を行う一方、桜屋敷は爆睡する。すやすや健康的な寝息を立て、テーブルに全重心を預けていた。
 インスタントの顆粒を溶かした鶏ガラスープを鍋に入れ、薄口醤油を入れて煮立てる。肉の匂いに、桜屋敷の肩が跳ねた。音で煮立ったことを確認した南城は、器用に水で濡らしたスプーンを使って肉団子を作る。冷たい金属の皿で絞り口から丸められた肉は、湯の中に入ると表面が一気に茹で上がった。ポリ袋の中を空にすると、横に待機した野菜を投入した。
 桜屋敷が小さく起き上がり、こくりこくり船を漕ぐ。南城は大きな欠伸をして、野菜が柔らかくなる頃合いに茹でた素麺を投入する。薄めの短冊切りにしたから、人参に火が通りやすい。ふぁ、ともうひと欠伸をする。ぐつぐつ素麺に温もりが入ったところで、火を止める。器に盛り付ければ完成だ。
 出来上がった一品を、南城はテーブルに出しに行く。桜屋敷が船を漕いでいた。心優しい一面が、普段ならば寝かせてやりたいところだが、と答えを出す。桜屋敷の足を軽く小突いた。
「いっ!?
「起きろ。火傷すんじゃねーぞ」
「誰がそんなアホなことをするかッ!! 脳筋ゴリラ!」
「しでかしたアホがいう台詞か? 卑怯眼鏡!!
「あれは未遂だ。しかも俺の真似するな! 筋肉ゴリラ!!
「真似してねぇよ! いいからとっとと食え。冷めるぞ」
「しただろ。フンッ、味を見てやるとするか」
「何様の気分だ。狸眼鏡」
「フンッ」
 桜屋敷は鼻を鳴らして、割り箸を割る。片付ける手間を省くためだ。割り箸であろうと、料理の味は変わらない。邪魔な髪を耳にかけ、陶器の丼にある麺を啜る。三つ葉の薬味が効いており、黒胡椒が出汁のジャンキーさを際立たせる。柔らかなしいたけは歯応えがちょうどよく、薄い人参はちょうどいい箸休めだ。肉で疲れた舌を癒してくれる。この出汁や一品自体をジャンクフードの評価で終わらせないのは、野菜とこの肉団子にある。ネギが肉の臭みを消し、生姜が肉を柔らかくする。独特な風味があるように思えるのは──ソースか。大方中華に合う風味と味から、オイスターソースの辺りだろう。
 丼の半分まで啜って飲んで食べて、桜屋敷は話す。
「手を抜くな。馬鹿ゴリラ」
「人が寝てる時間帯に飯をたかりに来たヤツがいう台詞か? 腐れ眼鏡」
 正論である。疲れてぐっすり寝ていたところを叩き起こされた身としては、充分なものを出したくらいだ。桜屋敷は消化に優しい素麺を啜る。テーブルに頬杖を衝くだけで、身体全体でそっぽを向く南城に話をした。
「汁物で出したゴリラがなにをいう」
「作り方が全然違うだろ。クソ眼鏡。自慢のメカに聞いてみたらどうだ? ロボキチ」
「カーラだ。ボケナス。ゴリラより低い学習能力もいい加減にしろ。ぼんくら」
「毎度人に飯をたかりにきてるヤツがいえる立場か? 腐れ眼鏡」
「お前、ちょっとこっち来い」
「はぁ?」
 食事を続ける桜屋敷に要求され、嫌々ながらも南城は応じる。ここで口喧嘩をして衝突しても、埒が明かない。レンゲを使わず汁を飲み干す桜屋敷の旋毛を、ジッと南城は見続けた。コトン、と空になった丼がテーブルに置かれる。完食したようだ。消化にいいものばかりを使って、消化しやすいよう柔らかくなるまで火を通した料理だ。深夜に眠る胃がビックリすることもないし、翌朝に消化の疲れを持ち越すことはないだろう。
 横に立った南城を傍らに置き、桜屋敷は席を立つ。同じ地表の高さに立ち、背丈の差はおよそ六センチ。慣性の法則でスケートボードが止まったとき同様の近さで、南城を見上げる。急接近した桜屋敷に、南城の肩が跳ねる。不機嫌な顔でジトッと南城を睨みつけたあと、懇親の力で無防備な足を踏み付けた。
「フンッ!!
「いってぇ!! なにしやがるんだ!? 暴力眼鏡!」
「身の程を弁えろ。ぼんくら。俺に意見するなど、一万年早い。もっと腕を磨いてから出直すんだな」
「スケートの腕じゃ、俺の方が上だろ!! ネチネチ眼鏡! カーラに頼った滑りで、なーにが俺より滑れるだ」
「カーラを馬鹿にするなッ! 雑ゴリラ!! カーラの計算があって、俺は愛抱夢と渡り合えるスキルを手に入れたんだ。ド阿呆」
「お前の滑り、昔の方がもっと良かったぜ。たまにはカーラ抜きで滑ってみたらどうなんだ。昔のコツを忘れちまうだろ」
「カーラに傷が付くからやりたくない。それに、あの滑り方だとカーラのボードの損傷具合が激しくなるだろうが。アホがッ!」
「板は壊れるもんだろ!? カーラ優先のスタイルで、なにが楽しいんだか」
「消耗品として板を扱うお前にはわからんことだ」
「お前だって壊れるもんとして滑ってただろ」
「カーラ周りはお前の収入を上回る額だ。大事なカーラを壊れる前提で扱う馬鹿がどこにいるという。阿呆が」
「メンテするにも限度があるだろ」
「滑り方に気を付ければ、メンテ以上の効果を持つ」
「つまんねー滑り方だな」
「カーラを雑に扱う方が理解できんな」
 会話をしているうちに身体の正面が正反対の方へ向き始め、噛みつくときに肩ごと顔で正面から向き合う。他は淡々と会話をしているうちに、元の場所に戻った。
 桜屋敷は空になった丼の前に座り、南城は立った場所から動かないまま、腕を組んでそっぽを向く。小さく袂に腕を入れ、桜屋敷は深く息を吐いた。肩の力も同時に抜く。
「寝る」
「は?」
「お前は床で寝ろ。ベッドは俺が使う」
「ふざけるなッ!! ベッドは俺のだ。腐れ眼鏡!!
「一番疲れている俺が使うのが当然だろう。客人をもてなす精神はないのか。原始人」
「お前は客じゃなくて、押し掛けだろ。無銭飲食眼鏡!」
「払っているものは払ってるだろう。類人」
「あれは払ってるとはいわねぇんだよ! クソ眼鏡!!
 最後の最後で南城が声を張り上げると、ドンッ! と壁から大きな音がした。うるさくて近隣から苦情が来たようだ。それは扉からではない。桜屋敷はポカンとし、南城は理解して顔を青褪める。壁の向こうに・・・・・・人が立てるような隙間はない・・・・・・・・・・・・・。サーッと顔を青褪めた南城が、ダラダラと脂汗を垂らす。ようやく事を理解した桜屋敷は、南城と同様血の気が引いた。宮古島の秘湯で味わった恐怖体験が一瞬で頭を過った。
「も、毛布を出すから、ちょっと待ってろ。あと枕も用意してやる」
「お前が床だ。俺がベッドで寝る」
「ふざけんな! 床で寝れるか!! 怖いわッ!」
「超常現象なんてあるわけないだろ! ビビりゴリラ!!
「ビビりなのはお前の方だろ! ビビり眼鏡!!
「いーや、そっちだ!!
 怖さで相手に非を押し付ければ、ドンッ! とまた壁が音を出す。咄嗟にベッドの中に潜り込んだ。桜屋敷が先に布団の中に潜り込み「返せ!」と南城が引き剥がしにかかる。「お前は毛布を使えばいいだろ!」と桜屋敷が腹を蹴りで押し返そうとすれば「毛布だと暑いんだよ!」と南城が言い返す。テーブルの上に置いた空の丼たちは置いてけぼりだ。
「使ったものを洗いに行け! 不衛生ゴリラ!!
「今の時間帯に行けるかッ! 朝日が昇ってからにする」
「出るものは出るぞ」
「なんでこんなときに怖いことを話すんだよ! お前は!!
「フンッ。セオリーを考えると油断したときに出てくるのが一番の脅かしポイントだろう」
「そういってるお前の後ろから出てきたりしてな」
「フンッ!」
「人の腹を蹴るな! 暴力眼鏡!! 俺の腹筋が割れてなけりゃ、今頃暴力罪で刑務所の中だったぜ?」
「俺は一般人に暴力を振るうような真似はしない」
「でも、レキからお前から拳骨を食らったって聞いたぜ? あとは、そうだな。公衆の前で胸倉を掴まれたとか」
「あれはアイツが公衆の面前で〝S〟ネームを口にしたからだ。ド阿呆」
「お前、本当そういうところが細かいのな」
「気にしないゴリラの方がどうかしている」
 桜屋敷は枕に腕を置き、自分で腕枕を作る。枕を奪われた南城は、自分で腕枕をしながら不服をいった。「それ、使わないなら返せよ」「使ってる」「使ってないだろ」「使ってるといってるだろが。ド阿呆」桜屋敷が南城の繰り返す主張に怒気を強める。ドンッ! と壁から音がしたというのに、桜屋敷は普段と態度が変わらない。南城は呆れた目で桜屋敷を眺める。桜屋敷は疲れた身体を休めるため、完全に就寝するスタンスに入った。
「こういうときは無視をするのがセオリーだ。例え女の幽霊であっても反応するなよ。タラシゴリラ」
「美人や可愛い女の子だったら迷っちまうとこだな」
 うんうん、と悩む南城に、桜屋敷は閉じた瞼を上げる。
「阿呆か。憑りつかれてもしらんぞ」
 それだけいって、もう一度眠りに戻ろうとする。
「素敵な女の子に憑りつかれるのなら、それも悪くないかもな」
 桜屋敷の言葉を受け、南城は淡い期待に胸を膨らませる。その抱く幻想に、桜屋敷は閉じかけた瞼を上げた。呆れた目で、南城を見やる。
「阿呆か。俺は知り合いにそういう祓うのが得意なヤツはいないぞ」
「愛の力でなんとかなるさ」
「とことん頭がわいてるな」
 相手がずたぼろになることを桜屋敷はいう。それらは実際、南城が現実で行動に起こしたら、一歩間違えたら凄惨なことになることを踏まえての指摘だ。意図せず警告をもたらす相変わらずな桜屋敷の言い方に、南城は笑みを浮かべて話を流し続ける。まさか自分が抱かれる側になるとは思ってもいなさそうな顔だ。
「精々出てこないことを祈るか」
 桜屋敷は自ら話に区切りを付ける。毎度この手の流れになれば、桜屋敷が自ら会話を切り終えることはいつものことだった。昔から変わらない流れである。
「だな」
 その率先さに身を任せて甘えることも、昔から変わっていない。南城は過去や思い出の中にある桜屋敷と現在の桜屋敷が変わらないことを、今の桜屋敷を薄目で眺めて思う。寝付きの良さも変わらないし、帰るもの怠くなって誰かが間に入るまでダラダラ話し続けたことも、肩を並べたベッドで寝るまでダラダラと話し続けたことも変わらない。湯に浸かったり、就寝に入る寸前であったりと、そうした油断したときに人の本性というものは見え始める。隠された本質というものも、ふにゃふにゃにほぐれた草葉の蔭から見え始める。
 欠伸を噛み殺し、滲んだ眠気の涙をギュッと閉じようとした。強く瞼を閉じれば、我慢の垣根が溶けたところから眠気が雪崩れ込んでくる。南城は寝落ちした。
 翌朝に目覚めた桜屋敷は、起きて早々目を大きく見開く。全裸の南城を見て、軽く混乱したのであった。