私は誰にも渡したくない

 胸の谷間に汗が集まる。(あっついなぁ)生温い温度だ。勝手にエアコンの温度を下げる。ピッピッと電子音が響くと、冷たい風が流れてきた。蒸し暑い夜には、これが一番だ。安堵した身体が息を吐く。このまま身体を乾かしてくれれば、結構だ。下着を履き、ブラジャーを拾う。びしょ濡れだ。乾かしても生乾きだろう。
「なぁ、下着借りても、あっ。サイズがなかったな」
 軽く笑いながら提案を撤回すると、ベッドから物が飛ぶ。聞き逃せなかったらしい。看過できない桜屋敷は、丸めたティッシュを投げ付けた。女特有の香りを含んだものである。それを南城はゴミ箱に捨てる。代わりに捨てた。
「だって、お前の小さすぎるもん」
「お前が太っているからだ。ボケナス」
「胸の大きい女はモテるぜ?」
「脂肪の塊で釣られるなど、ろくでもないに決まっている。見る目がないな」
「疲れたら揉む癖に」
「そんな連中と一緒にするな」
 布団をまで引き寄せ、熟睡に戻ろうとする。狸寝入りへ戻った桜屋敷に、南城はそうっと近付いた。
「昨日はあんなに抱いた癖に」
 布団越しに聞こえるよう、耳元で囁く。聞こえた声に、布団が下がった。白い手が裸の肩を曝け出す。薄く目を開けた桜屋敷が、忌々しそうに南城を睨んだ。
「そっちが求めてきたからだ」
「それでも、ここまで用意しているわけはないだろ? 他に誰かを抱いたりしない限りは」
「歴代男の愚痴を聞かされる身となれ」
「だからって、抱く側に、って。思い付くか? 普通」
「お前だって乗り気だった癖に」
「そりゃぁ」
 桜屋敷の追及に、南城は口籠る。顔を赤らめ、小さく口を尖らせた。「気持ちよかったからな」と、事実を認める。「フンッ」と桜屋敷は寝返りを打った。枕へ顔を埋める。毛先まで手入れの行き届いた髪が、白い肩を跨ぐ。薄く開いたカーテンの隙間から、朝日が差し込んだ。毛先を照らして、反射される。これを見れるのは自分だけだろう。感じ入った特権から、南城は正気に戻った。
「まさかと思うが」
 ベッドの脇に座り、桜屋敷に尋ねる。
「研究、とかしたり?」
「女の肉体からだは女が詳しいだろう」
「えっ。ってことは、え? 使用済み」
「んなわけあるかッ!! 金を要求するぞ」
「有料かよ。じゃ、取る側だったらこっちだな。抱かれた側だし」
「抱く側が金を取ることもある。そんなことも知らんのか」
「抱かれる側が高いらしいぜ」
「それはSMの話だ。ボケナス」
 自信たっぷりに言い放った南城に、桜屋敷が青筋を浮かべた。丑の時参りに般若のような顔をする女とは、このことをいうのだろう。しみじみと南城は桜屋敷の顔を見て思う。
(顔は整っているってのに。怒ると勿体ねぇ)
 大抵はこちらからキスを軽く仕掛ければ有耶無耶になる。南城の愛嬌や顔なりで、話が流れることが常だった。そこから自然な段階を踏んで、別れを切り出す。お互いに後腐れが残らないように、丁寧に事を運ばせてだ。
「床上手なんだから、少しはチップを弾めよ」
「弾んだだろう。昨日の夜に」
「あれはお前が抱いただけだ」
「こっちは挿入れてない。イッたとしても、想像でだ」
 正確にいえば〈脳が錯覚して〉だ。南城だけが挿入れられた側で、桜屋敷がそれを見て同様の快楽を得たということになる。(こっちのイく姿を見られて、もいわれてもなぁ)喘ぐ姿も含まれるだろう。直視することができなくなり、南城は口を手で隠す。目も逸らした。褐色の肌かでもわかるほど、顔は真っ赤になっていた。
「もう男と付き合うのはやめろ。セックスも気持ちよかっただろう」
「そ、それは認める。が、それならお前も変な男と付き合うのをやめろよ。毎回趣味の悪い男を取っ替え引っ替えしやがって」
「どうせ付き合うなら結婚したときに獲得する財産を視野に入れた方が効率的だろう。阿呆が」
「この狸眼鏡。あーあ、騙された奴ら全員、可哀相だ。コイツのこういうところを知らずに付き合って」
「だったら、こっちで妥協することだ。女の方が色々と都合がいいぞ? 男より融通が利く」
「そういえば」
 背後から腕を回してきた桜屋敷を見る。南城の背中に身体を添わせ、柔らかい褐色の肩に顎を置いていた。蜂蜜色の瞳が、眠そうに視線を上げる。目が合って、臙脂色の瞳に熱が灯った。動揺で瞳が揺らぐ。
「お前、そこらの男より稼いでるって話だもんな」
「石油王でない限り、太刀打ちはできないだろうな。お前がそいつを選ばない限り」
 男の話を持ち出せば、普段の鋭さが瞳に戻る。刀のような鋭さを孕む視線に、南城はムッとした。
「選ぶとでも思うか?」
 不愉快だ、といわんばかりに返す。
「お前は男が好きだからなぁ。ないとはいえん」
「それは」
 男の方が気持ちいいと思っていたからだ、の言葉を呑み込む。その前提はくつがえされた。同性の女と試しに一夜を共にしたが、今夜の比ほどではない。なにより、そのときは南城が抱く側に回っていた。
(気持ちよさに関しては、コイツに勝てるヤツはいなさそうだしなぁ)
 それに、今まで付き合った男よりは大事にしてくる。南城と同様、桜屋敷も男と付き合っていた。その殆どが短期間のうちに別れている。「どうして別れたんだよ」「時間の無駄だと判断したまでだ」他人から話を聞いた限り、桜屋敷は猫かぶりならぬ狸かぶりをしていたのらしい。桜屋敷と付き合った男は、見事狸に誑かされたというわけだ。「いつか素で付き合えるヤツと付き合った方がいいぞ」「できたらな」のやり取りが、まさかここに繋がるとは。幼馴染の執念に、南城は肝を冷やす。同時にお手上げとなった。
「仕方ないなぁ」
 小さく首を伸ばす。
「お前で妥協してやるということにしてやるか」
 チュッと桜屋敷の頬にキスを送った。一種の契約である。南城の軽いキスを頬に受けつつ、桜屋敷はいう。
「いい判断だ。少しでも後悔したことを後悔させてやる」
「じゃ、楽しみにさせてもらおうか」
「当然だ」
 契約が成立したといわんばかりに、桜屋敷が全体重を乗せてくる。「ハハッ」と南城は笑って受け止めた。幼馴染の執着に屈服する。折れたものの、これから先どう幸せにしてくるのか楽しみである。
「裏切るなよ」
「お前こそ裏切るなよ。絶対に逃がさないからな」
 口元に小さく笑みを浮かべる南城に、桜屋敷が掴みかかる。褐色の肩や腕を握る手に力を込めた。兎が獣を捉えた。南城はケラケラ笑う。桜屋敷は、まだ不安を抱く。いくら策を練ろうと、不安なものはまだ不安であった。