ジェノベーゼと足りない一手
朝目覚めて早々、珈琲を飲みたくなった。珍しく、桜屋敷はカーラのアラーム音の一回で起きた。正確には、二度目の時刻通知のアラーム一回目、である。脳が、以前泊まったホテルで飲んだ味を思い出す。モーニング珈琲はサービスの一環で、無料だ。ミシュランで高い評価を受けたと宣伝するだけあって、味もいい。都心に出張した帰りに買った、ドリップ珈琲一杯分を開ける。個包装で、使い捨てができる紙のドリップに、細かく挽いた珈琲の豆が入れてあった。それをカップの縁にかける。大事な珈琲をカップの中央に──漏斗のように──下ろし、ゆっくりとお湯を入れる。か細いお湯の線が、フィルターの谷に眠る珈琲を起こす。ぷくぷくと谷底に貯まるお湯で膨れ上がり、良質な香りを室内に充満させた。愛する人工知能は、桜屋敷の脳の覚醒が不完全であることを認知し、口を噤む。今淹れた珈琲に合うメニューの提供を中断した。ストックはデータの中に留める。強く焙煎した濃い香りに、微かに混じるナッツ系。珈琲豆の種類により、味や香りが変わることを、桜屋敷はぼんやり思い出した。淹れ終えたドリップを、濡れた珈琲豆の粉ごと捨てる。カップの湯気から漂う香りは、細く湯を注いだときに生じた香りと変わらない。一口飲む。ライトな口当たりだ。アメリカンほどではないが、ガツンと来るようなものではない。寝起きにしては少し物足りなく、クルミやアーモンドのような深みはある。寝起きの桜屋敷の脳が、物足りない警報を打ち出した。『飲用後はこちらのメニューがオススメです』カーラが桜屋敷のタブレットに、情報を転送する。キッチンに置いたタブレットを引き寄せ、桜屋敷はカーラの情報を確認した。Bluetooth接続は便利なものである。「うん。ありがとう、カーラ」桜屋敷の寝惚けた脳が、一歩覚醒に進む。右手首にあるカーボン製のバングルを撫でたあと、冷蔵庫を開けた。幼馴染と比べれば、不慣れである。その不慣れな手付きで卵を割り、軽い朝食を作った。ハムエッグをトーストに乗せたものである。価格が手頃なマーガリンは、低脂質ながらバターに準じたコクを与える。おまけに口当たりも軽い。半熟の卵の黄身は、齧るたびにトロリと溶け出す。零れないうちに、固さのある黄身と一緒に口に入れた。ハムもパンと一緒に食べる。それでもどうも、物足りない。
昼食までの仕事を終えると、桜屋敷は休業中の〝Sia la luce〟に向かった。いうまでもなく、幼い頃から腐れ縁で悪縁としか言いようがない犬猿の仲でもある幼馴染が、厨房で新作の開発に勤しんでいた。「おい。飯」桜屋敷は店に入るなりいう。「うちはイタリアンだ!」定食屋のノリで入った桜屋敷に、店の主である南城が不服申し立てる。イタリアンの気風で店を構える以上、店の雰囲気は守ってほしいものだ。「変わらんだろう」そういってカウンターに座る桜屋敷に「で? 腹減ったのか」と南城は答える。幼馴染である以上、無駄は省略する。「食後エスプレッソに合うもの」珍しい注文だ。南城は目を丸くしたものの、すぐにメニューを組み立てた。普段の逆算で考えればいい。桜屋敷のオーダーは〈エスプレッソ〉だ。イタリア人のように砂糖をドバドバ入れる趣味もない。ミルクを入れる可能性を考えるならば、豆の苦味から引き算を行う。濃い味付けを行った肉やチーズにも相性がいい。鮭のムニエルにも合う、と耳に挟んだ記憶もある。その食べ合わせは少ないだろうと思い、まだ確証は立てていない。フルーツは、今の桜屋敷のことだ。それは望んでいないだろう。
ジェノベーゼパスタを作った。イタリア本場と違い、あっさりとした口当たりだ。牛肉を主要にしておらず、ビーフシチューのような重い舌触りはない。オマケにソースの色は緑で、茶色から程遠かった。彩りに半分に切ったミニトマトを添え、バジルの葉で双葉の頂点を作った。茹でたタコは、皿の縁でパスタをグルッと囲むように散らす。試作を兼ねた一品だ。桜屋敷はパスタを口にし、次に茹でたタコ足を一口大に切ったものを食べる。
「まぁまぁだな」
この反応を見るに、実用化には遠いらしい。食事中に評価を下すということは、そういうことだ。桜屋敷の様子や反応を見て、試作品の改良点を考える。
(おっと)
自分の珈琲を淹れるついでに、桜屋敷のオーダーを思い出した。エスプレッソマシンを起動し、珈琲の予定をエスプレッソに変える。砂糖をほんのひとつまみ入れて、エスプレッソの出来をチェックした。砂糖はゆっくりと落ち、沈んでいく。機械に不備はなさそうだ。ほんの数粒の砂糖を入れたカップは自分に、なにも入っていない状態を桜屋敷に渡した。昼間であり仕事も控えるので、コレットやトニック状態のものは頼まない。なにも入っていないエスプレッソの状態で、桜屋敷は飲んだ。
やっぱり物足りない。
桃色の柳眉が、眉間に皺を寄せる。一口、二口、まだカップに珈琲は残る。ソーサラーにカップを置き、手を放した。背凭れに小さく背を預け、額や米神を押さえた。はー、と溜息を吐く。
「なんだ。どうした」
ムスッとして南城が桜屋敷に聞く。出した料理になにか不満があったのか。文句があるならさっさといえ。その要求を無言で示してくる。
「いや」
桜屋敷は南城の前提を否定する。
「なにか一つが物足りない」
「はぁ? 物足りないって、どこがだ」
否定が疑惑と否定の綿毛を呼んだ。たんぽぽの綿毛のように風に乗り、地面に種を植え付ける。桜屋敷の切り出し方だ。恐らく、今出した料理に対する不満ではないだろう。しかし、現状〈物足りなさ〉を示すものは、今出した料理以外にない。南城は眉間を寄せ、眉を吊り上げる。難しい顔をする南城に、桜屋敷は言い切った。
「珈琲」
「は?」
「朝から飲んでるが、どうも決め手が足りない」
「お前の舌が肥えてるからじゃないのか?」
「違う。ちゃんと味と腕が確かなものだ。なのに、どうも違う」
「なにが違うんだ?」
「どうも決め手が足らん」
また同じ手である。こうなると、切りがない。南城はこう結論付けた。「原因がわかってない、か」一つの疑問に対して、とことん追究する桜屋敷のことである。それ以外の言語化ができないということは、それ以上にわからないということである。その裏返しがあるからこそ、朝から悩んでいるというわけか。南城も釣られて溜息が出る。
「あ?」
ギロリと桜屋敷が睨んだ。その喧嘩の吹っ掛けに、南城は応える。
「紛らわしいんだよ。クソ眼鏡。じゃぁ、あるとしたら一つだろ」
「黙れ」
「状況的なもんだろ。その再現がないから」
「いっておくが」
続けようとした南城の発言を、桜屋敷は遮る。
「お前には全然関係のない状況だ。自意識過剰ゴリラ」
「んだと!?」
ゴリラのように南城はカウンターを叩いた。心外である、と態度から不満をありありと出していた。〈心外〉に感じたのは、桜屋敷の発言ではない。その物の捉え方にである。
「勘違いしているのはお前の方だろ。勘違い眼鏡!!」
「それはお前だ! 自意識過剰ゴリラッ!! 大方、決め手が自分にあると思い込んでいたんだろう? ボケが!」
「だぁれが、そんなこと思ったって!? 思い込みに関しちゃ、薫の方が大概だろ! いっておくが」
喧嘩の最中に名前を呼ばれることは珍しい。目を点にして固まる桜屋敷に、南城はジト目で睨む。口角は引き攣り、口は笑っている。なのに頬や米神には青筋が浮かんでいた。苛立ちを表すかのように、立てた人差し指で硬直する桜屋敷の肩を押す。
カウンターから身を乗り出した状態で、南城は文句をいった。
「お前の抱き方だって、問題があるからな!」
「なんだと!?」
「問題がおおあ、いや、ほんのちょっとだけだが」
「くだらん。やはり問題ないだろう」
「少しくらいはあるわッ! もう少し相手を労わ」
「それでアンアン喘いでるんだから、問題ないだろう」
「お前な!! はー、自分本位な抱き方をしていると、嫌われるぞ?」
「需要はあるだろう」
「いつか足元を掬われるぞ。狸眼鏡」
「その前に追い払えば問題ない」
「お前、絶対女と付き合った回数少ないだろ」
「短く付き合いサッサと別れ、すぐ別の女を見つけるどこぞのゴリラよりはマシだ。俺の方が誠実だ」
「んなので証明になるかッ!! 偉ぶった態度を取ってるって聞いたぞ」
「自分で決断できない女の方が悪い」
「機械に頼り切ってるお前がいうことかよ」
「だから機械じゃなくてカーラだといってるだろうがッ!!」
「一々うるせぇなぁ! 大声で喚くんじゃねぇよ!」
「それはこっちの台詞だッ!!」
「アホか! こっちの台詞だ!」
「真似するなッ!!」
「してるのはそっちだろ!」
「誰がゴリラなんかの真似するか!」
「パワー系は俺の方が上手くできるだろ!!」
「黙れ!!」
遥か過去、海辺の廃業したスタンドで、練習していた頃を持ち出される。確かにあの頃は、南城に一泡吹かせてやろうとのつもりで、同じようにパワー系のトリックに挑んだときはあった。たった、その一回だけである。その一度きりの過ちを持ち出されては、立つ瀬もない。桜屋敷が怒りで顔を真っ赤にする。南城もまた、ヒートアップする喧嘩の熱で、頭に血を昇らせる。珈琲の決め手の話は飛んだ。桜屋敷が仕事の都合で取ったホテルで一仕事を終えた一夜の就寝を経て、差し込む朝日の状況が揃わなければ、足りない決め手の言語化は難しいのであった。
それを知らないまま、ただただ喧嘩を続ける。ジェノベーゼのソースが乾いた。