ゴールデンウィークの過労
祝日が三つ以上連なる日をゴールデンウィークという。労働から解放される日を指せば、土日も充分祝日となる。奴隷の拘束から解放された人間の、自由を満喫する日といえた。その一方、連休という祝福を前に繁忙を極める分野がある。労働から解放された人間へサービスを提供する側だ。エンターテイメントや販売業飲食業は愚か、公共交通機関など、日々ヒトの生活を支える分野だ。これはイタリアンレストランである〝Sia la luce〟も例外ではない。しっかりゴールデンウィークの間も働いた。繁忙を極める。同じく、土日祝日と労働の解放が連なる休日は人の出入りが最も激しい。桜屋敷も出席やサイン会にと多忙を極めた。営業のスマイルを提供し、ファンの質問には答える。高く買う企業の上層と接待も休まなかった。〝Sia la luce〟で食事をするときなど、営業を崩さない。「なぁ。〝S〟に行ったか?」「仕事中だ。ボケナス」企業の目を盗み、話しかける南城には素を出す。小声で威嚇した。〝Sia la luce〟は南城が一人で店を回す。よって、店主が好きなように店を開けたり閉めたりすることができた。準備中や閉店後に人が入っても、気にする者は誰もいない。従業員がいたら、この点を営業時間外の客と従業員は配慮することとなる。この不安を取り払い、己の自由を手にした南城は今。大きなしっぺ返しを食らっていた。
〝S〟へ顔を出す前日の深夜、ちょうど日付が変わった頃合いである。
夜分遅くまで長引いた企業のパーティーから帰宅した桜屋敷は、店で力尽きる南城の姿を見る。「力尽きた」とは誤解を生むであろう。正確には、客のカウンター席に座って突っ伏していた、だ。コックコートの上を脱ぎ、下は葡萄色のコックエプロンを身に付けたままである。ついでに脱いだ下には、緑青色のシャツを着ていた。オフに店で料理を試作しているときの格好である。
珍しく洋装の桜屋敷は、大股でカウンターに近付く。南城の横に立つ前に、ダランと疲れ果てた脛を勢いよく蹴った。脱力した腓腹筋が、一気に硬直して飛び上がる。
「いっだ!?」
「サボるな。阿呆」
「こっちは重労働を終えたばかりだッ!! 狸眼鏡!」
「俺は長距離の移動を終えたところだ。筋肉ゴリラ!」
「飛行機で二時間ちょっと乗ったくらいだろ!?」
「正確には二時間一〇分だ! 脳筋ゴリラッ!! そこからタクシーで約三〇分、新幹線に乗って三〇分足らずだ」
説明しながら、桜屋敷は椅子を引く。華やかな花を飾る花瓶の近くだ。間髪入れず、南城が突っ込む。
「勝手に座るな」
頬はカウンターに突っ伏したままだ。ジト目で不満を入れる南城を、桜屋敷は気にもしない。
「俺の特等席だ。問題ない」
「いつからお前の特等席になった」
「ずっと前からだろう」
我が物顔で座る。これを南城は快く思わない。素直に認めるには嫌だったのである。連日の重労働で疲れたこともあって、動く気にもならない。カウンターに居続ける南城に「おい」と桜屋敷が声をかける。
「シェフならなにか出せ」
「今日は閉店だ。クタクタなんだよ。座ってばっかのお前と違ってな」
「今回は立食だ。ボケナス。俺だって移動で足が疲れた」
「貧弱ヒョロ眼鏡」
「既に力尽きているゴリラの方が貧弱だろう」
「俺は連休中の仕込みと給仕と調理とで疲れたんだッ! お前がいなかった分、身体は休めたけどな」
「仮にもオーナーシェフなら、人を雇え」
「指示するのも面倒臭いんだよ。俺だったら、このくらいの量は一人で捌ける」
「阿呆か」
店のホールを暗に示した南城に、桜屋敷は呆れる。〝Sia la luce〟の席数は、十を超えるかどうかだ。相席も含めて満席になることを考えても、四〇人を超すことはない。もう一点付け足すと、〝Sia la luce〟で相席を行ったとの話は聞いたこともない。類似の例があったとしても、予約の人数から遅刻者が生じたようなときだけだ。
無理と思える無茶を余裕でこなすことを、南城は撤回しない。胸を張り続ける。目を閉じたまま腕を組み続け、桜屋敷の顔を見ようとしない。見なくても声色と動作でわかるからだ。強固な態度を取る南城から視線を外し、桜屋敷は溜息を吐く。床に置いた紙袋を、ガサゴソ動かした。
この物音に、南城が薄く目を開く。桜屋敷は床に置いたものをカウンターテーブルに置き、中身を取り出した。
注意よりも、現れた中身に南城の注意が向く。
「それは?」
「京都で栽培した和食に合うワインらしい。作れ」
「なんでもイタリアンに合うとは限らねーぞ。ちょっと待て」
ドンッと置かれた中身は、緑色のボトルである。ラベルは金箔で印字した漢字と、黒のインクで印字したローマ字と英語がある。特徴的な絵の横には、キャンバスの隅に印泥で朱く印を押したような様子があった。鳥や花畑の色使いが京風のものであることからして、恐らくは日本画家が描いたのであろう。外国で始まったワインを作るにしても、デザイン性は日本を維持する。国産のワインを、新しいワイングラスに注いだ。洗って拭いて、片付けたばかりのものである。
トクトクと、緑色のボトルの中身を注ぐ。透き通る緑色のガラスの口部を通って、淡く緑がかった黄色い液体が流れた。ガラスの色を吸い込んだものではない。熟成に用いた樽や葡萄の品種で変わる。レモンの苦みからライムの混じった柑橘類の香りが、フワッと浮かんだ。
「本当、こういうところが気に食わないな」
「ほう? いってみろ」
「自分の好きなものだけ選びやがって。少しはこっちの好みってのを考えろ。腐れ眼鏡」
「その言葉、そっくりそのまま返してやる。お前だって自分の好みに合ったワインを選んでくるだろうが。原始人」
「少なくとも、俺は飲む人間のことを考えて選んでやっているんだよ。ロボキチ」
「目の前のワインで一皿出すことくらい、シェフなら余裕でできるだろう。馬鹿ゴリラが」
「聞こえてるぞ。陰険眼鏡」
「聞こえるようにいってやったんだ。脳筋ゴリラ」
「そんな気遣いは不要だッ!! すかたん!」
「なんだと!?」
「やるか!?」
ガンッと額が突き合った。ギリギリと睨み合う。ワインを一口飲む隙さえない。「お得意の書道で勝負を付けるには、墨も半紙もないけどな!」と南城が焚きつける。「愚問!!」桜屋敷が目を吊り上げる。一喝したあと、南城と対照的に口角を上げた。ヒクヒクと口角が引き攣っている。
「ペンと紙があれば、達筆順で勝負を付けられる」
「伝票もなにも使わせねーよ!」
「戯け!! もしものために、俺は筆ペンを持ち歩いている。紙がなくとも、ゴリラの顔に書けば済むだろう。これだから脳筋ゴリラは」
「って、俺の顔に書くことを前提にするな! だったら、俺はその筆ペンでお前の顔に落書きするぞ。筆ペンなんて持ってないからな」
「誰が類人に使わせるか。人間様の価値あるものに勝手に触るなッ!」
「全人類が価値をわかるわけないだろ。腐れ眼鏡!!」
「なんだと!?」
「やるか!?」
「受けて立とう」
二度目の正直が成功した。三度至るまで失敗はなく、一度目の失敗のみで成立する。勝負の内容は書道以外のものとなる。それも桜屋敷の得意とするところだ。「プログラミングで勝負だ」「勝負にもならねーよ。ロボキチ」プログラミングの『プ』の字でさえわからない南城は、門外漢も良いところである。桜屋敷の左手首にいるカーラが、目覚めた。場に応じて反応する。
『マスターとジョーの勝負にベストなものは、トランプ・ジェンガ・宝探しなどです。運と頭脳と技術が鍵となるものが良いと思います』
「機械がしゃしゃり出てくるなッ!!」
「機械じゃない! カーラだッ!!」
ドンッ! と桜屋敷がカウンターを叩いて立ち上がった。これに釣られて、南城も「なんだと!?」と怒って釣られて立ち上がる。またしても睨み合いだ。しかしながら、この場にはトランプもジェンガもない。宝探しに使える貴重品やガラクタ、日常品もなかった。カーラに至っては選外である。桜屋敷が怒り狂って拒絶する。例え最先端の技術で作られた人工知能を褒め称えても、桜屋敷は宝探しの探し物に使うことを拒絶した。
よって、この喧嘩は延長である。一時的に中断するしかない。
「フンッ」と鼻息を荒くして、顔を同時に背ける。視線が外れたことは、睨み合いの中止である。それぞれ椅子を戻して、席に座り直した。南城は連日の労働で疲れているため、カウンターの内部へ立とうとしない。客席に座って、営業終了の時間を味わう。
ワイングラスに入れっ放しにしたワインを飲んだ。シェフの癖で蓋をした瓶の中身と違い、グラスの中の風味は落ちている。それでも、味は変わらない。短い熟成で葡萄の若々しさがあり、残糖が多いためとろみがある。鋭敏でキリッと明確な酸味があり、微かな甘みが鋭い酸味の角を和らげる。ミディアムボディの中でも、軽やかさが一番強い。フルボディより軽やかでありながら、他のミディアムボディよりも軽く感じる。ミネラルのニュアンスもある。──和食に特化した点を踏まえれば、生魚以外にも魚介類の料理にも合うだろう──上手くすれば、パスタにも合うか。
桜屋敷の手で転がされているような気がして、南城はムッとする。
「このワイン、お前の好みが強すぎるんだよ。もう少し俺の好みの方に寄れ」
「キスして黙らすぞ。お前の要望通り、たまには俺が買ってきてやったんだ。有難く飲め」
「お、お前な」
桜屋敷が暴言の代わりに出した言葉に、南城の胸がうるさく跳ねる。「そのうるさい口を閉じろ。黙れ」の罵声は、違う効果を生み出した。分厚い筋肉を物ともせず、青年の心臓が激しく高鳴った。口元を隠す手が寄せた腕で、左胸が跳ねる様子は見られない。桜屋敷の視界に入らなかった。
褐色の肌と耳が、赤みを増す。
白い美肌と耳は、素面のままだ。桜屋敷はワインを飲む。
「ふむ。俺の見立てに間違いはなかったな。ボトルをキープしろ」
「俺の店は、お前専用のワインラックじゃない」
「飯を作れ」
「お前専用のレストランでもない」
「俺を店に入れている時点で形無しだろう」
「あのな」
ズイッと南城が顔を近付ける。顔が赤い褐色の肌と違い、白い美肌に酒の蒸気は見られない。キョトンとした目で南城を見た。ジト目の南城を前にしながら、桜屋敷はワインを飲む。
「なんだ」
「はぁ、誰のせいだろ。もし俺が店を閉めたとして、絶対開くまで待つつもりだろう」
「違うな。扉を蹴って知らせる」
「そういうところだよ。だから、仕方なくだ。どこぞの元ヤンのせいで、店を壊されたくないからな」
「お前だって一緒になって暴れてただろう」
「俺は手加減をしていた」
「本当か? 相手を壁にめり込ませた癖に」
「それは最近の話だ。ボケ眼鏡」
「俺はお前ほどボケてない。ボケゴリラ」
「あ? んなわけねぇだろ」
「カーラ。このゴリラに教えてやれ」
『ジョーのマスターに対する罵倒を集積した結果、ジョーはマスターより罵倒のレパトリーが二種類も少ないことが判明しました』
「って、それかよ!? なにムカつく顔してんだ! 薫!! 罵倒の種類で勝負したって、仕方ないだろ」
「ちなみにリアルタイムで集計している。これで俺がお前より頭が良いことが証明されたな」
「あのな。そういうのは地頭の良さと関係ないだろ」
「罵倒の種類が多ければ、国語力も秀でている。これで因果関係は証明できたな」
「んなわけねーだろ! バーカッ!!」
「馬鹿といった方が馬鹿だ! この馬鹿ゴリラ!!」
「お前の方が馬鹿だろ! 馬鹿眼鏡!!」
「いーや、お前が馬鹿だッ!! この腐れゴリラ!」
「なんだと!?」
「やるか!?」
「望むところだ!!」
今度は応じる側が逆転する。桜屋敷は南城の言葉を借りて罵声を吐くし、南城も桜屋敷の買い言葉を使って喧嘩を買う。それを両者は気付かない。互いに知ることもない。唯一の優秀な人工知能であるカーラは、指摘するつもりもサラサラなかった。なぜなら、創造主であり所有者である桜屋敷の利するところもないからだ。害するところもない。優秀な人工知能は黙る。
取っ組み合いの喧嘩に発展し、カウンターのワインが揺れる。桜屋敷が体勢を崩すと、南城の体勢が崩れた。足元が縺れ、桜屋敷の腕を掴んで背中が床に引っ張られる。桜屋敷が踏ん張っても、体格の大きい筋肉ゴリラの重心と引力までは支えきれない。筋量の差が顕著に出た。腹癒せに、南城の腹の横に膝を立てた。空いた手で南城の襟首を掴んで引き寄せる。
「俺を道連れにするなッ! タラシゴリラ!!」
「倒れたのはそっちだろ!!」
「お前が先に倒れたんだろうが!」
「そっちこそ倒れた癖に!」
「なんだと!?」
「やるか!?」
「躾をしてやろう」
「俺にそんな趣味はねーよ。変態眼鏡!」
南城の罵声が飛んだ。身体に教えつけるにしても、南城側で準備が必要となる。「そういえば、溜まってたな」「脱がすなッ!! あーあ、エプロンもパンツも洗わないとヤバくなっちまった」「替えぐらい用意して当然だろう。原始人」「一着くらいはな。って、脱がすなっていっただろ! この」陰険眼鏡、と罵声が出る前に上擦った声が出た。甘みがある。飲んだワインと比べれば、どっちもどっちだ。ワインの辛口に合わせ、南城も声を抑えようとする。喉に出さないようにした。それを知りつつ、桜屋敷は南城のシャツを捲った状態で胸に手を這わせた。分厚くも柔らかく弾力のある筋肉越しに、心臓が白い手を叩く。本人が無抵抗であることをいいことに、桜屋敷は好きにやる。「この変態眼鏡」触る桜屋敷の手首を掴み、ジト目の南城が顔を反らした状態で呟く。「どこがだ」眼鏡の桜屋敷が耳元で囁く。横目で見やる南城を、伏せた目でジッと射抜いた。膠着状態が続く。南城が反論しないことを見てから、桜屋敷は行動に戻った。南城から甘く上擦った声が出る。閉店後の〝Sia la luce〟で事に及んだ。