ミステリー・シップは追いはらえない

 那覇市埠頭にて、桜屋敷は豪華客船に乗る。作品を受け取った依頼主から「是非先生もお越しください」と御礼おんれいの品でチケットを二種類受け取ったからだ。乗船チケットと入場チケット──それぞれが二枚ずつ入っており、あと一名を呼べる。生憎なことに、桜屋敷は残り一名を呼ばない。愛する人工知能であるカーラは、桜屋敷一名に含まれるからだ。しかし、念には念を入れておきたい。愛機が一名として数えたときに備えて、チケットを四枚袂に入れる。軽く調べたところ、一般販売では入場と乗船は一枚のチケットに収まっているらしい。詰まるところ、これは関係者にしか配られていないものだ。転売に出された情報もない。今後取引を続けるにしても、仕事に支障はないだろう。(媚びを売っておくか)腹の中で画策する。
 チケットはそれなりの値段がする。安易に手を出せるようなものではない。
 だというのに、この場に絶対いないであろう人物がいた。
「げぇ!? なんでお前がここに!?
 驚愕を含む嫌そうな声に振り向けば、桜屋敷の形相が露骨に不愉快と驚愕を含んだものに変わる。白ワインを注いだ細長いワイングラスの折れそうな首を指で支えたまま、身体の向きを変えた。口端を下げ、怒りで眉を吊り上げ、奥歯を噛み締めながら大股で近付く。
「こっちの台詞だ!」
 会話をできる距離になると、噛みつき返す。接客をしていなければ、桜屋敷は化けの皮を瞬時に剥がして対応する。ここまで裏の顔を引き出すのは、ただ一人しかいない。
 この時間帯は店で料理と接客をするはずの人間、南城虎次郎が豪華客船に乗っていた。両脇に女を携えている。恐らくナンパで捕まえたのだろう。幼馴染で悪縁で腐れ縁だとしても、互いに互いのスケジュールを把握するほど親密な関係でもない。寧ろお断りだ。怒りを露わにする桜屋敷は、南城に喧嘩を売った。
「ここはお前みたいな貧乏人が簡単に来れるほどのものじゃないぞ」
 暗にどうやってこの船に乗ったかを聞き出す。南城に〈予約〉や〈下調べ〉の概念はない。いつだって成り行き任せで「勘だ」だとかいって当日入る。その類か。探る桜屋敷に、南城も血管を浮き立たせて返す。
「乗せてもらったんだよ。この子たちに声をかけたときにな、一緒に乗ろうって」
 ナンパした女のことを話すときは怒りを引っ込める。自分たちの好意を肯定的に受け取る南城に、女性たちは好意を抱いた。南城の腕に抱きつく力を強める。「やだぁ」「行きたいなぁといったのはそっちじゃん」デレデレと照れ隠しである。(またか)南城のいつもの女遊びに、桜屋敷はげんなりとした。顔に出るよりも先に、扇子で隠す。開いた扇子で口元の表情を隠した。
「呆れたヤツだ。女にたかるとは」
「たかったんじゃねぇ。譲ってもらったんだ。一枚余ったからって。なっ、シニョリーナたち」
 軽蔑を隠さない桜屋敷に事実を伝えれば、すかさずナンパした女にアピールを行う。冷たい桜屋敷のかおが作る表情の変化に見惚れていた女たちは、南城の魅力に意識を取り戻した。自分を口説いた男の腕に頬を寄せる。それを南城は嫌とも思わない。彼女たちの好意を無碍に扱わなかった。
「今日はお前の相手をするつもりも」
 ないからな、と断ろうとしたそのとき、豪華客船の案内が入った。ダイニング・テラスにも放送が流れる。限定的に公開したエリアに散らばった乗船客が、ホールに集まり始めた。「なにが起こるんだろうね」上機嫌にハートを飛ばすように話しかける南城に、口説かれた女は甘える。既に運営側の意図を知っているというのに、知らない振りをした。桜屋敷は南城の女遊びに付き合ってられなくなり、少し離れる。飲んだワインのツマミを探そうとバイキング料理が乗ったテーブルに近付いたら、依頼人に話しかけられた。即座に狸の皮を被り、営業を行う。「先生、どうですか。ここの料理は」「えぇ、とても美味しいです。ワインも選別されていて、きっとお高いのでしょうね」「お目が高い! そうなんですよ。ワイン一つ取ってもシェフがこだわりましてね」相手の自慢話に頷く。相槌を打つと、船内の放送が始まった。
 アナウンスが入る前特有のチャイム音が鳴り、ホールにいる全員に告げる。
 ──『ご乗船の皆様、本日はミステリー・シップへのご来場ありがとうございます』
 ──『本日のイベントのルールと注意事項をお伝えします』
 予め録音した声だ。リアルタイムで肉声で流しているものではない。「今回は力を入れまして」「先生の作品のおかげで、とても雰囲気が出たんですよ」依頼人が熱を籠めて話す。それほど力作らしい。「恐縮です」桜屋敷は狸の皮を被り、微笑む。依頼を請けるときに、そのようなものに使うとの話を先に聞いたのだ。そのような演出に合うように作った。功を制して当然である。ワインを一口飲み、依頼人の注意が離れた隙に南城を盗み見る。ナンパした女たちを侍らせたまま、胸を高鳴らせて案内を聞いていた。昔からそうである。虎次郎という男は、こういうアトラクションを好んでいた。怖がる女が抱きつくから、という理由も大きい。最低な動機である。ワインをもう一口飲んだ。グラスの中を空にする。
 ──『それでは、番号順にスタッフが案内をします。ご来場の皆様は、シェフが腕にりをかけて作った料理を楽しみながらお待ちください』
 バイキングを楽しみながら待てという。待つことに時間をかけるタイプなのか。耳を澄ませば、一から十の番号が呼ばれる。ホールに集う規模から概算すれば、五番目くらいだ。可もなく、不可もなく。一桁の番号は、プレミアム価格で購入した客だろう。商売が上手いことだ。「それでは仕事がありますので。是非お楽しみください」依頼人が離脱する。「えぇ。お心遣い、ありがとうございます」気を利かせたウェイターからカクテルを受け取った桜屋敷は、優しく微笑んだ。ウェイターが離れれば、素に戻る。一口大のスイーツが乗った皿を選び、付属のフォークで角を切る。刃先に突き刺し、味を見た。(美味い)それなりの味である。豪華客船の肩書きを裏切らない。値段相応の味である。『次はあの料理がオススメです』右手のバングルから愛機が話しかけた。桜屋敷の好みと口にしたものに合わせて、次の一品を選ぶ。「うむ」桜屋敷は機嫌よく頷き、それを取った。美味い。食べ合わせは最高である。桜屋敷は満足した。
 カクテルを口に含む。世界的に有名なアトラクションより待ち時間は少ないらしい。すぐに次の番号が呼ばれた。
「えっ」
 桜屋敷の耳に、南城の驚いた声が入る。それはとても小さな声だが、桜屋敷の地獄耳に届いた。どうやら船には乗れたものの、豪華客船のアトラクションに入場する権利はないらしい。「二回遊びたいから」「ごめんね」「待っててくれる?」ホールで待ちぼうけを食らうらしい。(いい気味だ)桜屋敷は心の中でほくそ笑む。南城がナンパした女たちが去るタイミングを見計らい、桜屋敷は近付いた。
「フラれたか」
「いつからいたんだよ。お前はッ!! まっ、気長に待つさ」
「夢中になるうちに忘れられるだろ」
「そのときはそのときさ」
 どこ吹く風である。本日は普段と変わったものを飲みたいらしい。南城はビールを選び、サラミを口にした。女がいなければ方向性が今食べたいものに変わる。
 趣味の食べ歩きに出た南城を見つつ、桜屋敷はスコーンを選んだ。「どうしてお前も来るんだ」「そこに食べたいものがあるからだ。ド阿呆」「先に来たのは俺だ。真似すんな、陰険眼鏡」「真似をしているのはそっちだ。脳筋ゴリラ」「そっちだろ。すかたん」「だぁれが好き好んでゴリラの真似なんかするか。阿呆が」「小学校の修学旅行のときだって横から入りやがって!」「あれは先に俺が目に付けたからだ! ド阿呆!!」互いにしかわからない過去の出来事を引き合いに出し、喧嘩を激しくさせる。「なんだ、なんだ」「なにが起きた」周囲は遠巻きに騒動を見つめる。料理を出すシェフは困惑した顔をした。バイキングの料理を取りたい客も、迷惑そうである。
 ──『次は三〇番から四〇番のお客様。スタッフの案内に従って行動してください』
 アナウンスのチャイムが鳴り、番号が呼ばれる。そろそろだ。目当ての料理を取った桜屋敷はバイキングの品が並ぶテーブルから離れ、招待を受けたチケットの番号を確認した。二人一組を基本とすれば、五組を一度に案内する形となる。呼び出す間隔は一〇組より早くて当然だ。
 ピザの一切れを選んだ南城が、食べながら背後に近付く。桜屋敷の手元を覗いた。瞬きを一つする。
「なんだ。薫も行けるじゃねぇか」
「行く気はない」
「じゃぁ、なんで入場券まであるんだよ」
「俺はここの運営から仕事を請け負ったんでな。その謝礼だ。女のお情けで乗せてもらったゴリラとは違う」
「向こうがもう少し俺と一緒に居たくて、誘ってきた話でもあるんだぜ?」
「イベントでは置いていかれたのにか」
「黙れ」
「それにしても可笑しな話だ。入場チケットが二枚あるのなら、セットになった方はどうする? 番号やチケットの管理はどうなっているんだ」
「ペアチケットとかあったんじゃないのか。聞いた話じゃ、片方がここの関連者らしい」
「ほう。ならばペアとシングルを一つずつ買えば、余る話だな」
「本当にあるのかよ」
「ある。カップルや夫婦限定だが、特に証明は求めてないからな。同性でも利用しようと思えば使える」
 女ならば親しい同性同士で使おうという考えも思い浮かぶ。その心理抵抗が少ない層は男より多い。顧客として期待できる厚さだ。その話を聞いては、南城も素直に喜べない。ナンパした女がどのような理由でペア券を購入したとしても──当て馬や暇潰しの道具に使われたことは否めない。
(まぁ、覚悟していたことだが)
 グラスの残るビールを飲む。一時的に女と時間を共有して遊びたい身だ。そのような女遊びを好む性格を利用して、南城との時間を楽しむタイプもいる。女遊びをする身からそうしたことを責める立場はない。どっちもどっちだ。残るピザの耳を食べた。(うん)豪華客船に恥じないピザの旨さである。日本人の好みに合わせつつ、ピザの郷土であるイタリアの知識と技術を活かした味だ。
 料理に舌鼓を打っていると、番号が呼ばれた。
 ──『五〇番から六〇番のお客様』
 桜屋敷の手にあるチケットが該当する。南城はウェイターから水を貰いつつ、話しかける。
「聞いた話じゃ、とても手の込んだ驚かしがあるみたいだぜ?」
「下らん」
「その依頼人も、お前に楽しんでほしくて呼んだんじゃないのか?」
「詳細は仕事を請けた時点で聞いている。わざわざ見るまでもない」
「宝の持ち腐れとは、ちと勿体ないな」
「おい。やめろ。まさか」
「おっ、三人一組で参加するヤツもいるらしいぜ」
「あぁ、クソ!」
 南城に首に腕を回され、桜屋敷は拘束される。こうなっては止めることはできない。悔しいことに、筋力の差がある。見るからに巨体に盛り上がった筋肉と細身の身体に極限まで乗せた筋肉とでは、力のバランスが崩れる。強引に連れて行こうとする南城に抵抗し、桜屋敷は手にしたグラスを適当な回収場所に置く。どさくさに紛れて水を手に入れ、一気に飲む。「トイレ近くならねぇか?」「黙れ」純粋な疑問を投げかける南城に罵倒を飛ばす。ズルズルと引き摺られるしかないことは、腹立たしい。「離せ!」「お前がチケット持っているからだぜ?」「だったら一人で行け!」「せっかくあるものを使わないのは勿体ないだろ」拒絶する桜屋敷に口端を上げ、強引に南城は進む。人の話を聞かない。それは桜屋敷とで同じだが、それがどこで発揮するかは異なった。
 正反対の方向に進む犬猿の仲である。「二名で」南城は案内を行うスタッフに宣言する。折れた桜屋敷は苦々しい顔をしながら「クソが」と呟いてチケットを渡した。『五二番』『五三番』と書かれた入場チケットである。
 スタッフはリストをチェックして、ペンを動かした。電子でも紙の媒体でも、人が入力することに変わりはない。(バーコードを使わんのか)チケット裏面にあるバーコードの意義に桜屋敷は頭を捻らせる。あれは購入時の確認であることを桜屋敷は知らない。それにバーコードを使っても本人証明になるとは限らない。購入者だとかたる場合もある。手作業でも機械でも、合致の確認に際立った効果を出さなかった。
 呼び出した番号が全員いることを確認したスタッフが、遊び方の説明を行う。〈アトラクション〉の名が示す通り、多少の驚かしがあるらしい。メインは謎解きだ。心臓に障害や病気がある人は予めご辞退ください、と注意書きを口頭で伝える。それほどのビックリポイントがあることに、南城は小さく口笛を吹きかけた。桜屋敷は他人の振りをする。
「では番号順にお呼びしますので、お待ちください。ペアや団体で参加をご希望の場合は、事前にお申し出を」
 これは土壇場でナンパの悪手を行う手口がある。咄嗟に南城の劣化版を目にすることを覚悟したが、幸いなことにいなかった。「じゃ、五二番は俺だな」現状を顧みて南城が最適解を出す。「ふざけるな」桜屋敷が蹴った。申し出る役目は自分である。南城より番号が後になることは許さない。学生の順番でも南城は桜屋敷の後だった。
 呼び出される番号に応じ、桜屋敷はスタッフの前に出る。
「連れは五三番だ」
 桜屋敷が伝えると、南城が出てくる。男がペアで参加することと把握して、スタッフは必要なものを渡した。仲が良い同性なら、よくあることである。二人に渡されたものは、懐中電灯と船内のマップだった。裏面の下部に、参加中の注意事項が書かれている。チケット購入ページにあった注意事項とほぼ同じ内容である。
「ビックリしたり驚きすぎても、設備や壁などを破壊しないようご注意ください。防犯カメラで犯人を特定して修繕費などを請求しますので。では、ミステリー・シップをお楽しみください」
 スタッフ専用の配られた台詞を口にし、大きな扉を開ける。頑なに閉ざされたホールの扉を開ければ、薄暗い廊下が二人を招き入れた。(どうせ作りものだろ)桜屋敷と南城はアトラクションを取るに足らないものと捉える。──開場時間まで解放されたエリアを一切見れないよう、丹念に目隠しを施したことだけある──。角を曲がると、入場時に想像できない光景が広がっていた。
 迫真の演出である。点滅する暗闇に視界が奪われ、警告の赤が世界を染め上げる。それも戻ってきた暗闇で消え、明るさが戻ってきた。しかしながら薄暗い。異変に止めた足を動かし、角を抜ける。光が一瞬消え、世界から色が抜ける。豪華客船と呼ぶには程遠い、幽霊船と呼べるような粗末な作りをしていた。白と黒、よくて灰色で明暗や質感を見せているものなので、わかりにくい。元がアイボリーの壁に手を伸ばすと、黒に粘着質な感触が伝わる。桜屋敷は顔を顰め、袂に忍ばせた懐紙で指を拭った。ゴミ箱を探す。
『マスター、足元に気を付けてください』
 状況を判断した愛機が忠告を送る。「あぁ。ありがとう、カーラ」桜屋敷は礼をいい、懐中電灯を点ける。それでも、視界が明るくなったとはいいにくい。視界がセピア色に染まっただけだ。
「へぇ。雰囲気が出てるな。こいつは、女と一緒の方が役得だったな」
 未知の世界に誘う演出に、南城は惜しむ声を漏らす。もしナンパに成功した女たちと一緒であれば、頼れる男なりの役得を味わえただろう。「お前、それしか考えられないのか」毒づくより先に純粋な疑問を南城に投げる。「野郎より女の方が嬉しいのは常識だろ?」役得を想像した南城は嬉しそうに断言した。残念ながら、先客は既にいなさそうだ。後が詰まらないよう、桜屋敷は通路に従って歩く。手近なドアノブを捻るが、開かない。全部の部屋に入れるわけではないらしい。
「三つのフィルムを探して、ホールに帰ればクリアらしい。緊急時やリタイアには近くのカメラに助けを求めろだと」
「ふむ、カメラか」
 懐中電灯で照らしても、マップはモノクロだ。精々灰色の明暗で色の違いがわかるだけである。南城の言葉に桜屋敷は周囲を見渡すが、どこにもカメラらしきものはない。手当たり次第に叫べということだろうか。「セーフティワードは書かれているのか」「お前、そういう趣味があるのかよ」信じられねぇ、と南城は呟く。ドン引きする南城に「してやろうか」と桜屋敷は脅した。決して南城にその趣味があるわけではない。難しい顔をした南城は、桜屋敷の問いを流した。「ねぇよ」最初の質問に答える。リタイアを望む場合はカメラを見つける必要があるらしい。土壁のような凹凸を見せる壁に、桜屋敷は近付いた。
「強引にでも参加者を脱落させない狙いか?」
「知らねぇよ。んなことより、さっさと進もうぜ。他の女の子に会えるかもしれないからな」
「耳が腐る」
 南城の期待を一蹴し、桜屋敷は罵倒を続ける。
「こんなときでも口説くことしか考えられないのか? 全く哀れなゴリラだ」
「なんだよ。ビビってんのか? ロボキチ」
「誰がビビるかッ! ビビってるのはそっちだろう」
「宮古島の秘湯で悲鳴を上げた癖に」
「先に悲鳴を上げたのはそっちだ!! 俺は釣られて声を出しただけだ。断じてビビってなどいない」
「いや、ビビってただろ!!
「強いていえば、あの正体が気になっていたことくらいだ」
「充分じゃねぇかッ! ったく、素直にビックリしたって認めろよな」
「それはこっちの台詞だ。おい。そっちのパンフレットになにかヒントは書かれてないのか」
「あ? 書いてあるのは同じだろ。ん、開いたな」
 隣り合う扉の距離が短いだけあって、部屋の中は狭い。カプセルホテルのように縦にベッドが並び、気休めに荷物を置ける空間がある。一般客室だ。寝起きするだけなら充分である。
「筋肉ゴリラには窮屈すぎるくらいだな」
 後ろから覗き込んだ桜屋敷が、ボソッという。
「お前だって天井に頭をぶつけるだろ」
 負けじと南城も言い返せば、すぐに桜屋敷が噛み付き直す。
「俺のポケットマネーをお前と同じにするな。ぼんくら」
「いつかそれで足元掬われんぞ。腐れ眼鏡。唯一開いた扉だとすると」
「おい、ゴリラ。上も調べろ」
「命令すんなッ!! お、枕の下にあった」
 開いた扉に寄り掛かりながら眺める桜屋敷に、南城は文句をいう。物を隠せそうな場所を探ると、堅い紙が指に当たった。その角を手繰り寄せ、手に掴む。懐中電灯でカードを照らし、その裏表を確認する。「ほらよ」桜屋敷に手渡した。パートナーが確認を行う間に、南城は上のベッドを調べる。桜屋敷はカードを裏返し、文字がある面を懐中電灯で照らした。
『ゲームをクリアするヒントのようです』
 玄人ならわかることをカーラは口にする。桜屋敷はゲーマーほどゲームをやりこまない。「ふむ」カーラにも見えるよう、カードを傾けた。
【夕日が差す遊歩道に出られる北の扉、その傍にある小さな部屋】
 単語に修飾語を施した句が並ぶだけの文章である。ヒントはそれ以外になさそうだ。『炙り出しの痕跡はありません』純粋にヒントはこの文章のみである。「ないな」南城が匙を投げる。
「遊歩道、というとデッキか?」
「馬鹿が。カーラ、この船で遊歩道に関連するものを頼む」
『ブロムナードデッキではないかと思われます』
 桜屋敷の愛機は思考の回転が速い。持ち主が考えを巡らせることもなく、ヒントの正体を開示した。あとは【北の扉の傍にある小さな部屋】を探すだけである。
「階は」
「この階だ。なんだ、意外と早く見つかり」
 そうだな、と呟く寸前に黒い影が視界を横切る。咄嗟に南城は影が見えた壁の方を見る。なにもない。世界を白黒に照らす船内の照明が、チカチカ点灯するだけである。桜屋敷に視線を移せば、小さく口を開けていた。目を小さくしている。
「なにか見たか?」
 異変があったか確認を取るように、南城は尋ねる。
「は? 馬鹿なことを聞くな。ただの演出だろう」
 上擦った声に動揺が出ている。恐らく、なにかを見たに違いない。南城の背後にあるのは、壁と船窓だ。既に沖縄近海を巡る出港をしているため、海しか見えない。
 時間帯も夜なので、見えるとしたら夜の海だ。──夜の海といえば、ゴーストシップである。
「だ、だな。あぁ、気のせいだ。絶対」
「なにを呟いている。さっさとクリアして馬鹿な遊びを終わらせるぞ」
「雰囲気が出ているよな」
 桜屋敷に続いて南城が出ようとしたとき、バタンッ! と勢いよく扉が閉まった。独りでに、である。桜屋敷が足で蹴ったり、振り向いて閉めたり、といったことはない。桜屋敷と南城も、扉に手を触れていない。なのに、勝手に扉が閉まったのである。
 突然の怪異に、桜屋敷は固まった。点滅するモノクロの照明が壁の黒ずみがグネグネと動く錯覚を起こさせ、船に打ち付ける潮の音が大きくなる。頼りのカーラはなにもいわない。ザァア、ザァア、バングルから出るノイズか打ち寄せる波の音のどちらであるかさえわからない。
 固まる桜屋敷が状況を必死に理解しようと動き出したとき、閉じた扉が勝手に開いた。「うわっ!?」扉に体当たりを仕掛けた南城が廊下へ転がり込む。肩のタックルは止まることを知らない。「なっ!?」南城に釣られて桜屋敷は声を出す。咄嗟に肩の激突ラインから身体を反らした。
 桜屋敷が避けたことを見て、南城は蹈鞴を踏んで踏み止まろうとする。壁に手を衝いた。黒ずみが見せる藻のような触感はない。ただの壁だ。驚いて見上げる桜屋敷に、南城は肩を跳ねた。
「あ、悪い」
「さっさと離れろ。ボケナス。ドアを引くということを知らんのか。この原始人は」
「開かなかったんだよ!! 全力でタックルしてもビクともしなかった。それが突然開いたんだ。どうしようもないだろ」
「死人が出るだろ」
「未遂に終わった」
 暗黙に息を合わせることができたから大事に至らなかった、と釈明を主張する。その釈明が意味する──主張する本人も意識していない──意味する側面に、桜屋敷は苛立たしさを覚えた。肯定するのも癪だからである。「チッ!」と舌打ちをして、ガラの悪さを見せた。AI書道家桜屋敷薫の素の面である。
「馬鹿なことをしてないで行くぞ。ゴリラ」
「誰がゴリラだッ! なぁ、今の仕込みだと思うか? それともランダムか、それにしちゃ手間がかかりすぎて可笑しいと思わないか?」
 矢継ぎ早に質問を出す南城に、桜屋敷は嫌気が差す。AIをプログラミングした人間だから、なんでも知っているとでも思っているのだろうか? 呆れた視線を肩越しに投げ、桜屋敷は答える。
「俺が知るか。というか、こんな演出。俺は聞いてない」
「は? お前も中身を知ってた口かよ?」
「依頼を請けた中身で想像しただけだ。ド阿呆。俺の作品を使うものだぞ? こんな映画に出てくるような演出は聞いていない。カーラ」
『十九世紀のイギリスの客船で起こるミステリーを舞台にしたイベントです。その設定に合うようマスターは古風な色合いの作品を制作しました』
「だから違う。まさか、エリアごとに雰囲気が異なるのか?」
「手の込んだことをしやがる。それにしても、こういうのに弱いヤツだとパニックに陥るだろ」
「違いない。カーラ、ライトを」
『OK、マスター』
「便利だな。それ」
「それじゃない。カーラだ」
「はいはい」
 桜屋敷の小言を南城は流す。白い右手首にあるバングルが、淡い紫色の光を放った。カーラの発声時に用いるライトを応用したものである。二つのライトを駆使し、桜屋敷はマップを確認する。
「この記号からして、船頭が北の設定だ。夕日が差す、つまりは西日が当たるところだ。ちょうどここから反対側となる」
「通行禁止になってたエリアか。ん? 今は入れるんだよな?」
「に決まっているだろ。ド阿呆。じゃないと船内を探索できるイベントとして成り立たん。に、してもこの暗さ。目が悪くなるな」
「既になってんだろ。ロボキチ」
「俺の場合は仕方なくだ。タラシゴリラ。ふむ」
 桜屋敷はマップを片付け、ルートを頭の中で再生する。
「一先ず船内を一周する形で回るか」
「少し戻れば、雰囲気がありそうな通路に出るぜ」
「わざわざ通る阿呆がいるか。いや、いたな」
「悪ふざけで紙だか布っぽいのを引き千切りそうだよな、あれ」
「壊したら払えよ」
 見つけたものを思い返す南城に、桜屋敷は念を押す。代わりに払うなど、以ての外である。次の突き当たりを曲がると、広い船室の扉がある。「ここにもなにかあったりして」南城はドアノブを捻るが、開かない。中でなにかが引っかかっているようである。入るにしても、外に面する窓からだろう。コインランドリーの洗濯機が何台か入りそうな空間には、なにもない。風化して崩れた樽の腐った板や金属板らしきもの、ボロボロの布や木箱の残骸があるだけだ。「馬鹿なことをしていないでさっさと行くぞ」桜屋敷は足早に去った。
 次の通路へ左に曲がれば、エリアを一周する。遊歩道に出られる北の扉の傍にある部屋──恐らくこれだろう。桜屋敷は躊躇いなくドアノブを捻った。簡単に扉が開く。
「おっ」
 室内は心なしか広く感じる。その原因は灯りを照らして気付いた。二段ベッドの寝台がないからである。代わりに小さな机と映写機がある。ちょうど壁に映像を映せる感じだ。
「ここから取り出せばいいのか? どれ」
「あっ、再生してんじゃねぇよ。腐れ眼鏡」
「は? 俺は再生ボタンなど押していないが?」
「はっ?」
 訝しむ桜屋敷に、南城は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をする。海のざわめきで音は掻き消されていた。カチッとフィルムを収めたケースが開くと同時に、映写機は映像を流し始めた。
 映像のフィルムは抜かれたような状態である。壁にモノクロのフィルムが流れる。鹿の映像だ。遠くから二つの円らな瞳が観客たちを見つめるのも束の間、花が開くような映像がフェードアップする。一夜しか咲かない花がゆっくりと花弁を開かせるように、水中に落とした絵具が徐々に広がるかのように、奇妙な映像が一定間隔で続く。
 色を奪われた光と夜の時間帯であることもあって、不気味さを感じる。光で色彩感覚を奪われたことで、日常と異なる未知の世界を感じていた。
「げぇ、気味が悪いな。女が抱き着いてくるところだってのに、なんだってコイツなんかと」
「それはこっちの台詞だ。ボケナス。扉は、ふむ。開くな。先に出ろ。ゴリラ」
「はぁ? 先頭は譲ってやるぜ? モヤシ眼鏡」
「寝言は寝ていえ。原始人。またゴリラのタックルを食らいたくないからな。お前が先に出ろ」
「チッ、仕方ねぇな」
 とはいえ有難い譲渡である。何度もドアノブを回しても手応えはないどころか、むしろくっついているのにドアノブが扉の機能から離れているような徒労さえ覚えた。寝台しかなく、携帯は圏外。窓から見えるのは海だけであり、液晶が表示する時間がランダムに数字を示す。66:66などの表示など、世界基準で定めた二十四時間表示ではありえない時刻だ。あんなに激しく扉に体当たりしても、部屋を出た方には聞こえなかったらしい。桜屋敷に聞こえていたとすれば、あんな固まったりしない。
 南城は桜屋敷の提案を飲んで、先に部屋を出る。
「そういえばフィルムは取ったのか?」
「戯け。既に取ってあるわ。馬鹿ゴリラ。お前が心配するまでもない」
「一々一言多すぎるんだよ。重箱の隅ピンク!」
 悪態を吐いて互いに相手を罵り、部屋を出る。南城が廊下に出た途端、バタンと扉が閉まった。
「おい。悪ふざけも大概にしろ。脳筋ゴリラ」
 故意ではなく事故であろう。このようなとき、南城はこの手のことをしでかさない。桜屋敷が罵倒とともに憎まれ口を叩けば、扉が開く。違う階のエリアに出ていた。
「は?」
 桜屋敷は固まる。ただでさえあり得ないことだ。扉の正面は壁であり、左にデッキに続く扉と広い船室、右手にホールへ続く長い通路だ。それが、さっきまでいたところである。少なくとも、南城に先に出るよう扉を開けたときは、自分たちがホールを得た最初のエリアにいた。
 それが、西向きの部屋から北向きの部屋に変わっている。正面には、ホールへ続くらしい細長い通路。次に左手には壁で右手には別の部屋の扉だ。桜屋敷が出るときの方角は東で、出たあとの方角は南に変わっている。無意識に懐中電灯で周囲を照らせば、上と下のエリアに移動できる階段が埋まっていた。まるで事故に遭った漂流船がガタが来て、天井を支え切れず瓦礫で埋まったかのようなものである。
 咄嗟に灯りを階段の上に向けても、瓦礫で埋まっている。桜屋敷は未知の状況に硬直した。
「か、カーラ! 今、俺はどこにいる!?
『ミステリー・シップの二階です』
 嘘だ。桜屋敷の脳が咄嗟に否定を出す。何故なら、事前に調べた公式ホームページでは、二階はこのような雰囲気ではない。入場時にメインエントランスしか入ってなくても、である。「嘘だ」固まる桜屋敷は無意識に声に出した。『本当です』全幅の信頼を寄せる人工知能は否定した。『現在マスターがいるところは、ミステリー・シップの二階です』出かける事前に、カーラの調整は終えていた。バグになりそうなところなど、最初から取り除いた。ここで故障をすることはないはずである。「カーラ、本当か?」桜屋敷は念を押す。『本当です』カーラは事実だと肯定した。
 見ているものが間違いや幻覚だとでもいうのか? 桜屋敷の身体がぐらつく。船が嵐に遭ったかのような衝撃は、船内の床から伝わらない。
「カーラ。俺は気付かないうちに夢遊病にかかっていたか?」
 現実的に考えれば、桜屋敷が意識していない間にエリアを移動していた説が強い。夢遊病であれば、見える光景は夢と同じ幻覚だと説明ができる。
 カーラは桜屋敷の生活リズムや体調から、夢遊病に罹患りかんした可能性を探る。──というより、今更しても無駄なことだ。カーラは常日頃、桜屋敷の体調が健全であるよう、彼のスケジュールを管理している。そのため、桜屋敷が日常生活に支障が出る病気を患う場合、その可能性が浮上する行動を桜屋敷が出る前に警告を出すのだ──。そんな完璧なAIの管理下であっても、桜屋敷は確認を取りたかった。
 そんなはずはない。その思いだけが頭を占める。カーラが計算を終えた。
『いいえ。マスターは至って健康です。夢遊病を始めとする睡眠障害になったことはありません』
 僅かな希望が音を立てて崩れた。ならば、これは健全な人間が見ている光景とでも? 桜屋敷は信じられない。カーラのいる右手首を視界の高さに上げ、信頼できるAIに尋ねる。
「カーラ、周囲に人の気配はあるか? 位置は?」
『マスターの前方に五名、左手側にはゼロ。賑やかな様子です。フィルム探しに苦戦しているようです』
「誰でもいい。近くにいる人間の位置を教えろ」
『十八歩前方の扉に人だかりがあります。暫く動く気配はありません』
 ならば誰かと激突するはずだ。桜屋敷は足早に、大股で前進する。瓦礫で崩れた階段が示す通り、この階は全体的に湿っぽい。海の波が船の内部まで染み込んだかのようであり、海中の岩から足を滑らせる原因と、同じぬめりを床から感じる。上の階から波と一緒に流れてきたのか、薄暗い視界で海藻が床に転がっている。あるとすれば、死者が眠るような静けさだ。扉を開けるだけで、先人である骸骨が骨だけの身体を起こすであろう。生きている気配は桜屋敷だ。なのに、全幅の信頼を置く人工知能は人の気配を捉える。桜屋敷以外に生きている気配だ。
『マスター、危険です』
 カーラが警告を発する。それを無視した。十八歩目を踏み出し、十九歩目。障害物を身体に感じた気配はない。塩辛い悪臭をやけに感じる通路を歩き、着物の肩を手で払う。既に集団がいると思わしき場所を通り過ぎた。
 桜屋敷の身に、なにもない。
『マスターに怪我はありません。彼らも気付いていないようでした。マスターが当たったことに気付かず、部屋から出てきた人物と話しています』
「カーラ、それは本当か?」
『本当です』
 人工的な音声にノイズは混入しない。自身に健康診断をかけたときも、音声の質問に応じて回答を出したときでさえ、不具合を示す奇妙な間は生じなかった。カーラは正常である、、、、、、、、。それでも、どうしてか自分が置かれた状況を科学的に説明できない。故意的にぶつかったというのに、避けられることはあるか・・・・・・・・・・・? 平均的な身長の喉に腕が当たるように動いたというのに、運よく避けられるはずもない。それに当たりそうであるか避けられる隙間があれば、事前にカーラが教えるはずだ。
 それがないということは? 疑問を意識するよりも先に桜屋敷は動く。乗船時に正常な状態を目に入れた、エントランスに向かった。
 出口は見えているのに、一向に辿り着かない。懐中電灯で薄暗い闇を照らしても、思うような効果は出ない。途中で踵を返すものの、灯りが見せる突き当たりに着かない。立ち止まってもランニングマシーンのように床が動く気配はなかった。長年海の上で漂い、朽ちかけていると思われる床は制止したままである。桜屋敷は深呼吸をし、踵を返す。
 懐中電灯をエントランスの方角へ向けたとき、人のような影が横切った。桜屋敷の重心が後ろに傾く。寸でのところで体勢を崩さなかった。あれは、本当に人だろうか? 人にしては、毛むくじゃらだったように感じる、、、、、、、、、、、、、、、
(いや、見るにしても魚人の類だろ。毛むくじゃらなんて、よくて狼男だ)
 学生の頃、南城と度胸試しで鑑賞したホラー映画を思い出す。数々の都市伝説やホラーにありがちな有名な化け物や怪物を脅威として次々に出した映画の脇役たちがいうように、舞台にはおあつらえ向きの化け物や怪物が出てくるものだ。
 海といえば、魚人か鱗。陸といえば、毛むくじゃらかゾンビ。
 そこまでホラーに詳しくない桜屋敷は、身近に感じた知識で例えを出す。立ち並ぶ扉から、助けを求めるように扉が強く叩き付けられる。どんなに力を加えても、扉は震えるだけでビクともしない。外から開かなければ開かないのだろう。何度も何度も桜屋敷に気付かせるように、全ての扉が大きく震えた。それはホラーの演出でありがちなものである。今回の仕事で依頼の品を仕上げる際、その手の驚かしを肝とする作品のPVを見た。その数、一〇〇にも及ぶだろう。そう感じるほど多くの作品を桜屋敷はPVで目にした。なので、演出側が怖がらせる意図で行うものは、ある程度予測が付くのだ。ズンズンと真っ直ぐ進む。桜屋敷は怖がらない。トイレに入る通路から腐った死体のようなものが現れても、演出の一つだ。力尽きたかのように廊下に倒れ込んでも、着物の裾をたくし上げて跨ぐ。例え特殊メイクであろうが、着物や足袋に汚れの一つも付けたくない。「客の服が汚れるだろ。クソが」依頼人に悪態さえ吐いてしまう。トイレの傍を抜けたら、メインエントランスに出る。桜屋敷は肩になにかが落ちたような気がして、無意識に手で払った。着物に埃一つすら付けたくないのである。手入れが大変だからだ。
 メインエントランスは、桜屋敷が肉眼で最初に見たものより変わっていた。壁は崩れかけており、ボロボロになった中の材質が見える。談話室の曇りガラスも砕け散っており、外部を遮る壁はなにもない。あるとすれば、ビッシリと赤錆がこびり付いた鉄柱だけである。「これは、予算がヤバいな」アタッシュケース一杯の札束で報酬を払っただけのことはある。背後の通路から死者が苦しむような呻き声が聞こえても、人工的に作ったものだろう。試しに、正面に見える扉に近付いてみた。見るからに壊れているが、物は試しだ。ドアノブを捻ってみる。扉の蝶番は壊れているのらしい。錆びてビクとも動かなかった。無意識に扉に爪先を向ける。行動に移す寸前で、スタッフからの注意事項を思い出した。
 ──「設備を破壊しないようご注意ください」「修繕費を請求します」──。
(おっと、危ない)
 桜屋敷は足を引っ込めた。蹴り破るなど言語道断である。悪ぶった頃の癖が出る前に、メインエントランスの階段に戻る。どうやら、昇降に支障はなさそうだ。天井は崩れる心配もないし、藻に浸食され尽くした階段に足を取られないよう、気を付けるだけである。幸いなことに、階段は耐食性を施したセラミック製だ。上っている最中に足元が崩れる心配はない。あるとすれば滑る心配だけだ。
(アトラクションで頭を打って病院に運ばれるなど、目も当てられん。イベント中だからか、エレベーターも動かないようだしな)
 寧ろ、エレベーターの扉は壊れている。中の空洞が見えており、懐中電灯で上を照らせば、ワイヤーの切れた先端が見える。見るまでもなく、粉々になった鉄の箱の残骸が空洞の底にあった。手の込んだ演出である。恐らくエレベーターは一階に留まらせており、特殊な機械でホログラムを作り出し、疑似的に事故が起きた幽霊船の様子を演出している。エンターテイメントの腕前の鑑賞はそこまでにして、桜屋敷は階段を上がった。草履に海水が沁み込むのはいただけない。(帰ったらクリーニングに出して。あぁ、先にシャワーを浴びたい。髪に臭いがこびり付いただろ。クソが、少しは客の都合を考えやがれ)ヤンチャをした高校生の頃のガラの悪さが顔を出す。ビッシリと群生する珪藻で足を取られないよう細心の注意を払い、階段を上がる。悪あがきで風通しの良い場所に着物を干すか。営業時間になったら即座にクリーニングに出したい。
 三階に続く階段を上っていると、真上から影が落ちる。
「薫!!
 切羽詰まった声に顔を上げれば、はぐれた南城がそこにいた。肩で息をしている。全力疾走を続けたのか、階段の手すりと曲げた膝に手を付けている。
 ──藻はこびり付いていない。
 ポカンとした桜屋敷は、すぐさま階上を確認する。南城の大声に異変を感じたのか、なんだなんだと他の参加者たちが近付いてくる。漂流する幽霊船の朽ちた感じや、照明に異常を起こした様子はない。カラフルな視界だ。
 色が戻った。正常な灯りが、正常な船内で、イベントを楽しむ参加者たちを照らしている。
 生きている人間の気配だ。生者の気配で溢れている。
 桜屋敷は俯き、無言で眼鏡を掛け直した。眼鏡がズレて視界がぼやけた、なんてことはなさそうだ。桜屋敷が上がってきた階下から「どうしたんだろう」と生きている人間の声が聞こえた。巨大な待機室であるホールで聞いたような、日常の生活を送る人間のそれだ。無言で残りの段数を上がる。
「そっちでなにかあったか!? 必死で走ってたから俺は覚えていないが、あれは本当に演出か? それにしては、怖すぎだぞ。まるで本場だと宣伝するお化け屋敷を数百倍強めたような」
「演出だ」
「はっ?」
 明るい船内で南城は惚けた声を出す。逆光で桜屋敷の眼鏡の奥が見えない。照明の光を反射するレンズの奥で、桜屋敷は眼光を鋭くした。
「恐らくランダムに選ばれる特別なエリアだったのだろう。だが、現実的に考えればもう一隻同じ船が必要となる。だとすれば、俺たちはVRゴーグルのようなものを付けられていたに違いない。何故最初の部屋と違うところにいたのかについては、恐らくスタッフが意識を失っている俺たちを運んだのであろう。化学的な薬品を人体に影響を及ぼさないレベルで用いれば、説明は付く」
「お、おい。本気でいっているのか?」
「本気だ」
 早口で捲し立てるように持論を吐き出した口調のまま、力強く桜屋敷は断言する。「おい、ゴリラ。変な臭いはしないよな?」「はっ? どういう意味だ」「ならいい」フッと頭を振るように話を中断させる意図すらも読めない。南城は戸惑う。このような状態の桜屋敷は、絶対に持論を曲げない。
 そう説明をするのであれば、自分の身に起きたことはなんだったのであるか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・? 納得できない南城は、持論を押し付ける桜屋敷に戸惑った。
「色々と突っ込むところはあるが、VRゴーグルを付けられたような覚えはなかったぞ」
「市場に出ないプロトタイプのものだろう」
「お前に合流するまで、人の気配がなかったぞ!?
「知るかッ! スタッフが人払いをしたんだろ!!
「こんな自由に行き来できる雰囲気でか!? 薫、もしかして俺たち」
「お前は馬鹿か!? 現実的にあり得るはずがないだろう! 絶対にだ!! ぜっ」
 ピシッと凍ったかのように桜屋敷が固まった。南城を差した指先は、最早別のものを指している。驚いた顔のまま沈黙する桜屋敷を不審に思った南城は、背後を振り返った。
 骸骨がいた。それも、デフォルメを誇張した頭蓋骨の被り物と、その穴から全身を覆う黒タイツに白い骨をペイントした格好である。「あれれ?」黒タイツの骨は全身の骨に連動しており、上腕の骨がセットで上がれば、骸骨の生身の腕もタイツの下で動く。
「驚かしてすみません。これも仕事なもので。あっ、休憩エリアは五階の各エリアにあるので! 有料で軽食を頼むこともできるので、是非ご利用ください!」
 ライト層をターゲットにしたイベントであった。施設内の雰囲気を恐怖の演出で最大限装飾し、手の込んだ驚かしや技術ももちいない。テーマパークで人間が演じるお化けやらと接触を交わし、歓談と探索と謎解きを楽しむような作りだった。
 桜屋敷の口から魂が出た。
「おい!? 薫! 大丈夫か!? 薫!!
 咄嗟に介抱した南城の悲鳴が船内に響いても、桜屋敷は気を失うままだ。(そんな、あり得るはずがない)起きたことを受け入れられない桜屋敷は、気絶する。ショックのあまり、全身の力が脱力する。まるで映画に起きた悲劇のワンシーンのように、南城は腕で抱き留めた桜屋敷の名前を呼んだ。「なになに?」「もしや、桜屋敷先生の身になにか!?」南城の悲鳴に口説かれた二人組の女が、南城が口にした名前で桜屋敷の依頼人が駆け寄る。
 聞こえた取引先の声に、桜屋敷の目がかっぴらいた。突然意識を取り戻した桜屋敷に「うわっ!?」と南城は驚く。思わず介抱した桜屋敷を落としかけた。
 依頼人が見えるよりも先に桜屋敷は南城を押し退け、何事もなかったような風をする。「先生!?」責任者が桜屋敷に駆け寄る。
「なにか?」
 何事もなかったかのように、穏やかな物言いで桜屋敷が応じた。あまりにも化けの皮が厚すぎる。掌を返した落差に、南城の口角が引き攣る。「今、悲鳴が」「なんのことでしょう。私は今来たところなのですが」「そ、そうですか? あぁ、そこの君! いったい、なにがあったんだ!?」「えっ。その、先生がこっちを見るなり」「何事もありませんでしたよ」生身の人間が演じる骸骨に、桜屋敷は笑顔で圧をかける。強引にでも、何事もなかったと押し進めるつもりだ。こうなったら、相手が折れるまで圧を笑顔で掛け続ける。
 後頭部を掻きながら、南城は立ち上がった。ナンパした女の二人が南城に駆け寄る。「なにかあったの?」不思議そうに事態を尋ねる。
「なんともないよ。なんか、突然怖い雰囲気がばっちりなところに出ちゃってさ。SASUKEみたいなアトラクションもあったんだよね」
 女を怖がらせてはいけない。必死に走ることに意識を全部持っていかせた怪異としかいえない現象を、日常に慣れ親しんだ言葉で優しく包み込む。「えっ」イベント関係者である女が、驚いた声を出した。
 ──「そんなアトラクションなんてないよ。あっても、ジョギングやテニスくらいで。バスケはあっても、SASUKEみたいな大規模なアトラクションは設置していないよ」
 イベントや豪華客船の内部の人間にしか知らない情報を、南城に伝える。
「えっ」
 南城は言葉を失った。桜屋敷が否定した体験は、もしや現実に起きたことでは? サーッと南城の全身から血の気が引いた。
「なにもありませんでしたよ。ところで、一つお尋ねしたいのですが」
 生身の人間が演じる骸骨に圧をかけ、桜屋敷は依頼人に矛先を向ける。「は、はい」偉い人間から圧の気配を感じる依頼人は、手を揉んだ。
「お渡しした書、まさか破くようなことはしてませんよね? そのような話は、請けるときに聞いてはないのですが」
「とんでもない! 先生の書を疵物にするなんて、末代まで祟りますよ! ここだけの話、六階のラウンジやダイニングにそれぞれ飾らせていただいておりまして。もしよければ、今すぐご案内を」
「いえ、結構。もう一つ」
 意気揚々と納品した作品について語る依頼人に、桜屋敷は青褪める。この反応だ。あの演出・・・・をしでかしておいて、作品は渡した状態を保ったまま、丁重に飾られてある。それは今まで仕事を請け負った先で、同じような扱いを受けている。当然のことだ。だが「書を疵物にする」との話題が出て「この客船を幽霊船の雰囲気を出すのに苦労して」なんて自慢話は出てこない。この手の人間であることにも関わらず、だ。
 つまり、導き出される答えは一つ。イベントの責任者であるこの人間は、本来把握しているはずのあの仕様を知らない、、、、、、、、、。全てを管轄する責任者が知らないでいるはずか? あのような大掛かりのものであったのに? 混乱でピースがバラバラになる。あれら起きた現象を説明することは、ただ一つ。桜屋敷がとても頑なに認めたくないと願うもの、そのことだ。
 カタカタと桜屋敷が小刻みに震え出す。
「お、おい。薫」
 心配で身を乗り出した南城が、声をかける。
「いえ、失礼」
 それがなにかの意識を切り替える儀式であるかのように、桜屋敷は眼鏡のブリッジを指で押し上げた。耳に当たる眼鏡のモダンの位置を整える。
「残念なことに、驚きすぎて疲れましたもので。今日はお暇させていただきます。申し訳ありません」
「いえいえ、そんなことお気になさらず! また機会がありましたら乗船してください。また招待状を送りますので」
「はい。今度は、通常営業のときに」
「えぇ、えぇ。最初にお聞きするべきことでしたな。こちらこそ申し訳ない」
 平身低頭で謝れば、先方は気分を悪くすることなく要求を飲んだ。これで今後の仕事に支障は出なくなる。立つ鳥跡を濁さず、桜屋敷はもう一度低く頭を下げ、一番賑やかなエリアに移動した。ナンパした女と合流した南城は、小さくなる背中を見つめる。階段から上に消えたことを見て、ナンパした二人組の女に手を合わせた。
「ごめん! 急用ができちゃって!! 埋め合わせは、また今度でいい?」
 ナンパとは一期一会である。もう一度会うということはないに等しい。「うーん、また会うことがあったらね」そういうことは二度と来ない。女側もそれを了承して答える。「またあったら、色々と奢ってもらおうかな」女の片方が明るく約束する。「うん。また。本当、ごめんな!」明るさに釣られてヘラヘラと答えようとするが、誠意の謝罪が先に来る。もう一度手を合わせて二人に謝ったあと、南城は階段を上がった。女をナンパするだけナンパして、タダで乗船券を手に入れ、見返りを与えることを放棄した。チケットを渡した女はムスッとし、連れである女はその胸中を察せられない。労働の見返りの一つとして渡されたタダ券が、キューピッドに使われることは納得が行かないからだ。割に合わない。もう少し楽しませてから後を追えよ、と女は心の中で毒づいた。
 せっかく女と一夜限りの特別なイベントを過ごせる機会をドブに捨て、南城は桜屋敷の後を追う。向かう先は、船内マップを見れば見当が付いた。四階をスキップし、五階に上がる。デラックスとスイート、オーシャンビュースイートが並ぶエリアだ。その金額も然ることながら、その顧客に狙いを定めた娯楽施設も揃っている。竹のように細長い落葉樹や和モダンな小さな植物、白い石を敷き詰めたり庭石を使うなりして和風に纏めた小さな庭の横を過ぎ、土産屋を通り過ぎた先の角を曲がる。そのまま直進すれば目的の場所が見えた。機械やパソコンの類が好きな桜屋敷である。きっと海上でも一番身近なものを感じに向かうだろう。
 南城はカフェと小規模な図書館を兼ねたエリアに入った。のびのびと人が寛ぐには数人、場所を詰めれば十数人で過ごせる広さをしていた。そこの調度品でもあり家具でもある、背凭れから肘掛け、座面までをソファの造りをした高級な椅子に、桜屋敷は身体を預けていた。ボーッと天井を眺めている。インターネットに繋いだらしい。桜屋敷の手首に建材するバングルに潜む妖精は、所有者に最新のニュースを伝えていた。
 桜屋敷は微動だにしない。南城は近くにある椅子に座ろうとする。桜屋敷が座るタイプと同じだというのに、窮屈に感じる。椅子が壊れないよう、南城は浅く腰かけた。
 話しかけようと口を開くが、なんと伝えればいいか、わからない。図太い神経をしている癖に、予想外のことでフリーズする傾向がある。今、桜屋敷はその状態だ。長く固まる人間に下手に声を掛ければ、せっかく取り戻しかけた平常心が消えることとなる。慎重に言葉を選ぶ南城を他所に、桜屋敷は口を閉じた。
「ビーフだ。虎次郎」
 唐突に南城の予定を決め付ける。「はぁ?」断ることも許さない力強い口調に、南城は眉を寄せる。理性が平常に戻ったのか、それともまだ混乱しているのか。これだけではわかりにくい。疑う南城に、桜屋敷は態勢を変えた。小さく腰を上げ、椅子の背凭れに浅く身体を預ける。
「こういうときはビーフをするに限る。滑ることだけに集中すればいいからな」
「あー、だな。それは一理ある」
「虎次郎。どこかいいコースは、愛抱夢が使ったのは駄目か」
「どれだ」
「愛抱夢がスケーター潰しに使った旧コース」
「駄目に決まってるだろ。せめて現〝S〟のコースだ」
「あー、クソ。今は開いてないに決まってるだろ。少し考えたらわかることだろうが。ド阿呆」
「阿呆はそっちだ。明け方なら誰もいないだろ」
「俺は降りたらすぐに始めたいんだ」
「港に着くの、明け方なんじゃ」
『ミステリー・シップは夜の一〇時に終わります。マスターの望むコース設定とは条件が合いません』
 すかさず優秀な人工知能が答えを出す。南城は桜屋敷の人工知能に聞くよりも先に、自分のスマートフォンを確認した。
 液体は割れていない。軽く振っても、機械がバグることはない。
 ワールド基準で精密機械は時間を刻み、24時間と60分の表記に従って現時刻を示す。
 壊れていない。
 正常に動く時間の刻み方を見て、ようやく見知った日常に戻ったと感じる。
「若いからって許されるような歳じゃなくなったからな。ダウンヒルに近いコースだと、山道に行くしかないぞ」
「近場で〝山〟か。観光客として誤魔化すことはできん。となれば、早急に着替えての〝S〟か」
「お前が人前でビーフをしたいっていうのなら、それでいいが」
 額を押さえて俯き、ブツブツ呟く桜屋敷にいう。幽霊のように長い髪を床に垂らしながら、桜屋敷は続く言葉を待った。
「薫はそういう気分なのか? お前だったら、俺の店か山でしかビーフを吹っ掛けないだろ」
 南城の知る桜屋敷像を、答え合わせするかのように本人に尋ねる。数秒の沈黙のあと、絞り出すように「当たり前だろ」と桜屋敷から回答が返った。上半身を膝へ曲げたような状態のまま、桜屋敷は微動だにしない。恐らく、先の沈黙は普段の噛みつき返す罵倒が出なかった故にだ。南城は一つずつ、外れたボタンをかけてやる。「ったく」動揺が残る桜屋敷に、平常心を取り戻す助けをしてやった。
「俺にビーフを吹っ掛けたのは、さっき起きたことを忘れたいからだろ」
「黙れ」
「まぁ、俺も忘れてしまいたいくらいだ。忘れるまで滑ることなら、付き合ってやるぜ」
「当然だろう」
「そんな状態で滑るなんざ、〝Cherry blossom〟の名折れだろ」
「その名で呼ぶなッ」
「地味に痛ぇんだよ。腐れ眼鏡」
 力なく呟く声に確かな感情──強い怒りが混ざる。しかしまだ調子を取り戻せない。揺れる自我の強さは、南城の脛を爪先で強く突くだけに終わった。「はー」桜屋敷は俯いたまま、重い溜息を吐く。
 のろのろと顔を上げ、長い髪の隙間から前方を見据えた。前後逆になった後ろ髪が視界にかかることを、気にも留めない。額を押さえる指の隙間から、変わり映えがしない正常な・・・ライブラリーカフェの壁を見つめる。
「こんな状態で、愛抱夢と絶対に会えるか」
「それはこっちの台詞だ。俺だって、あんなことがあった後じゃな」
「黙れ」
「絶対に暦辺りは泡を噴いて倒れるだろうな」
「笑い事じゃないぞ。まったく。本当呆れ果てるな」
「さっきまでの薫の様子、動画に撮っておけば良かったな」
たわけ。したらしたでお前のスマホを叩き割ってやる」
「物理的に破壊するのかよ。本当、変わらねぇな」
「そこまで匹敵する所業だからだ。ボケナス。そっちがそのつもりなら、お前のハメ撮りをするぞ」
「やめろ。それだけは絶対にやめろ」
「万が一流出したら、お前のファンは失望するだろうな」
「絶対にやるんじゃねぇぞ!? 腐れ眼鏡!! 流出したら、二度とお前に作ってやらねぇからな!?
「ハメ撮りはいいのか」
「よくねぇだろ!! 腐れ眼鏡!」
 涼しい顔で聞き返す桜屋敷に、南城は顔を真っ赤にして怒る。少しは調子が戻ってきたものの、南城の男としてのプライドを折る発言の数々を口にする。それだけは、絶対に南城は認めたくなかった。自分の好みやコスチュームに合わせた服装で好意的に近寄るファンも、ナンパの対象である女にも絶対に知られたくないことである。その、ギリギリ南城を「男である」と自認させる最後のラインを、死ぬまで守り通したい。
 肩で息をするほど憤る南城に、桜屋敷はいう。
「先に吹っ掛けたのはそっちだろ」
「口にしていいことと悪いことがあるだろうがッ! 非常識眼鏡!!
「なんだと!? 俺ほど常識を弁えているヤツはいないだろ! 節穴ゴリラ!!
「節穴なのはそっちだッ! すかたん!」
「お前の方が節穴だ! ボケナス!! 節穴が示す通り、お前の穴も」
「黙ってろよ?」
 今度は南城が桜屋敷に圧をかける。疲れた桜屋敷の肩に手を置き、ミシミシと骨を軋ませた。外部の圧力で血流が滞り、皮膚が痛みを感じる。「痛い」ペシッと桜屋敷が掴んでくる南城の手を内側から叩けば「お前のせいだろ! 腐れ眼鏡!!」と南城は声を荒げた。
 命を落とすような危険や恐怖に遭遇した場合、人間は本能的に遺伝子を残そうとする。それが性欲に向かうこともあれば、別のものに向かうこともある。生存本能が性欲以外のものに昇華される形だ。セックスの誘いをするにしても、物事には順序というものがまず必要である。
 例え既に関係を持っていたとしてもだ。
 頭に血を昇らせて怒鳴り散らす南城に、桜屋敷は呆れる。
「大声を出すな。周りの迷惑になることも気付かないのか、このゴリラは」
「誰のせいだと思ってるんだ、お前はッ! お前のせいだろ!! 馬鹿薫ばかおる!」
「俺のせいじゃない。お前のせいだ。馬鹿ゴリラ」
「元はといえばお前だろ!? ずけずけとあんなことを口にしやがって!」
「元凶はお前だろ! 元凶は!! ホールで大人しく飲み食いをしていれば、こんなことにはならなかった」
「でも、バイキングは一時的に中断になるらしいぜ? 完走者の授賞式を始めるまで」
「問題にもならん。船内を移動すればいいだけだ」
「同じことだろ。ホールから移動したら、あぁなったんだぜ」
 恐らく、先にホールを出た人物が一定距離まで進んだら、次に参加者を放流するシステムであったかもしれない。とすれば、あそこまで船内が人で溢れ、先発と後発で合流する仕組みにも合点が行く。
 ヒントを頼りに、参加者の一人がライブラリーカフェに入る。ヒントが示す手掛かりを元に物を動かし始めた。
 一言も発さず、沈黙を守った桜屋敷が口火を切る。
「ヤるぞ」
「んな場所なんざあるわけねぇだろ! クソ眼鏡!!
 突然桜屋敷に怒鳴り始めた南城に、入室した参加者は身体を縮ませた。一般参加者には、なにが起きたのかわからない。怖い人がいる、だけの印象を抱き、涙目で探索を続ける。あの二人の視界に入らないように動いているものだから、気付かれることはない。
「あったとしてもバレるだろうが!」
「あぁ、確かに俺としても不愉快だ。こんなゴリラを抱いている事実など、広められたら堪らん」
「だったら抱くなよ。下手くそ眼鏡。誰のせいで俺のケツが酷使されてんだよ!? え!?
「俺が下手くそなわけあるかッ!! だったら、お前は淫乱ゴリラということになるな!?
「黙れよ。陰険眼鏡。とっととその口を閉じろ!」
「閉じるのはそっちだ!! お前が口を閉じろ」
「いーや、そっちだ。元はといえばお前の誘い方が露骨なのがいけねぇんだろ!!
「文化的な言い回しが原始人に伝わるとでも!?
「伝わるわ! 百戦錬磨の俺に伝わらないものなんてないだろ」
「だったら、愛してると今いったらどうする」
「全然気持ちが籠ってねぇだろ!! そういうのはなぁ、気持ちを込めていうもんなんだよ! すかたん!」
「黙れ! 素寒貧!!
「店持ってる俺が素寒貧なわけねぇだろ!! この狸眼鏡!」
「それに近いものだろう! この朴念仁がッ!」
「朴念仁はそっちだ! 無愛想眼鏡!!
「馬鹿いうな。俺のどこが無愛想だ? 俺の振りまく愛想で相手は気分を良くしてるぞ?」
「そういう意味じゃねぇんだよ。腹黒狸。あっ、テメェ! 遠回しに馬鹿っていいやがったな!? この馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿!」
「小学生みたいな喧嘩を吹っ掛けてくるな! ウルトラスーパーはイデックス馬鹿ッ!!
「テメェだって小学生みたいな煽り方してるだろうがッ!! ぼんくらすかたんおたんこなすすかたんピンク阿呆眼鏡!」
「俺のをパクるなッ! 真似しんぼゴリラッ!!
「誰が真似しんぼだ!? 守銭奴狸眼鏡ロボキチッ!」
 延々と喧嘩が続く。参加者は嫌になって、見つけたフィルムとともに逃げ出した。
 ──ここで疑問が一つ生じる。桜屋敷が手に入れた最初の『フィルム』はどうなったか?
 桜屋敷と南城はゲームの途中で離脱した。なので「最初に手に入れたフィルム」とは、あのとき手に入れたフィルムのことである。
 答えを先にいおう、塵となったのだ。桜屋敷の手の中で離さず握り締めたフィルムは、燃えカスのように形を残さず消えていった。唯一残る痕跡といえば、桜屋敷の手に残る黒い灰のカスである。だが、残念なことに、桜屋敷はあのとき体験したことを頑なに事実として認めようとしない。ある夜に起きた白昼夢なのである。なんだか知らないうちに始まって、なんだか知らないうちに終わった。明け方に見る悪夢のようなものである。汗で黒い灰は洗い流されるし、カーラの記録に空白が残る。その機械の不備を、桜屋敷は深く考えない。無意識に心の奥で拒絶するのだ。
 カーラの思考や機能面に問題が生じないことを丹念に調べて、確認を終えてから、不穏な空白の記録を消す。それを構成する電子の組み合わせは虚無に消え、もう二度と復元できることはない。完全削除デリートだ。
 悪霊が現世に迷い込む日に、起きたことはなにもなかった。
 南城の喧嘩と、下船して〝S〟のコスチュームに着替えてから山に行き、ギャラリーのいる中でビーフをした。勝敗は、同着である。納得が行かなくて、下山するまで喧嘩を続けた。それでも腑に落ちなくてヤッた。ただそれだけしか起きていない。
 不安と怖さを感じた桜屋敷は、出かける準備をする。(カルボナーラ食べたい)ハロウィンの出来事を思い出し、思考停止した脳が安息を求めて行動に移す。
 右手のバングルに、日課のチェックを終えたカーラを移動させる。
 のろのろと〝Sia la luce〟へ向かう。星が満天で明るい満月の日には、なにも起きないような気がした。
 生きとし生ける存在の息吹だけが、世界に根付く。桜屋敷は足を動かす。この時間は、とっくに店が閉まっている。オーナーシェフの南城はおらず、もぬけの殻だろう。だとすれば、自宅となる。
 踵を返す。桜屋敷は南城を抱きに向かった。