ハンドクリーム
ハンドクリームを出し過ぎる。仕事で作る作品を考えた余り、力加減を見誤った。ブチュッと過剰なクリームが手の平にあった。ポカンと口を開ける。思考が止まる桜屋敷に『商品名で検索中。全身へ使うとのレビューを発見しました』とカーラが伝える。高級な余り、手以外へ使う購入者もいるようだ。しかしながら、桜屋敷は首に使うつもりもない。腕へ伸ばしたり、足のケアへ使うこともしない。着物の裏地がべたつくからだ。最悪張り付いて、上手く動けない。ハンドクリームを持っていた手を引っ繰り返し、手の甲にクリームを付ける。山は潰れた。中間の高さが残る。触れた手の甲も充分な量が付着しており、それで足りた。両手を補える量である。過剰に出したクリームの使い道がない。またしても桜屋敷の思考が止まった。ドケチな性分が値段の勘定を始めたのである。
そんなとき、南城が顔を出した。不摂生な桜屋敷のために、料理を作りにきたのである──ここで誤解をしないでほしい。桜屋敷の食事は【完璧】だ。最先端の技術で常に最新のアップデートを果たす人工知能『カーラ』の元で、桜屋敷は栄養管理を徹底している。骨格とスリムな身体の線を崩さず極限まで付いた筋肉も、カーラの適切なアドバイスがあっての成果である。唯一南城が不満を挙げるとすれば、その食事の取り方だった。桜屋敷は自宅ではゼリー飲料やサプリメントを主食とし、人間らしい食事は専ら外食に頼る──。空の容器を携え、桜屋敷に聞く。
「かおるー。イタリアンの他に、なにか食いたいもんはあるか? ちょっと新作にも挑戦してみたくてさ」
「急に話しかけてくるなッ! 変態ゴリラ!! 和食」
「着物だけに、ってか。上にジャケット羽織っているからセーフだろ!! ロボキチ!」
「だからってわざわざ下に着ているものを脱ぐヤツがいるかッ! ド阿呆!!」
グッと握り締める。手の甲に着いたクリームが微かに揺れた。保湿性が高いというだけあり、中々手から落ちない。重力と揺れる力があっても尚、形を崩すだけだ。浮かぶ青筋の凹凸があっても、それすら包み込む。「おっと」余ったクリームを持つ手を丸め、なにも付着しない手の甲に摺りこませる。二つの手の甲の間でクリームが伸び、堅い面だけに保湿と潤いを与えていく。「なにやってんだ。お前」自分に背を向けた桜屋敷の行動に、南城は呆れる。「金欠ゴリラには関係ないことだ」美肌に気を遣う桜屋敷は、最初から相手にしない。元より時間の無駄である。褐色のもち肌を崩さない人間が、白い美肌を維持する苦労を知るだろうか? いやない。二重否定を繰り返す。あるとすれば、それを使う女の会話と反応だけだ。それに共感と理解を示すために、上辺だけの知識を持つ。その土台で語ろうなど、言語道断だ。最初から話にならないのである。そう愚痴愚痴と心の中で毒づいても、手の中にあるクリームの量は変わらない。
明らかに桜屋敷の手に余った。
べたつくしかないクリームの扱いに、桜屋敷は困る。眉間に皺を寄せ、考えること数秒。「あぁ」と声を上げた。なにかを閃いたようである。キッチンへ戻ろうとする南城を呼び止める。「おい。虎次郎」名前を呼んだ声に「なんだよ」と踵を返す。もう一度顔を出した。今度は、ちょいちょいと手招きをしている。これに南城は口を真一文字に引き締めた。吊り上がった眉尻が、ピクピクと痙攣する。明らかだ。明らかに嫌な予感がする。そうクッキリと、ハッキリと自覚した。気乗りがしない南城に、桜屋敷も眉を吊り上げた。「おい」今度は機嫌の悪さが混じっている。このまま無視をすれば、面倒臭いことに拗ねるだろう。神経質で細かいところまでネチネチという性分であることだ。きっとその先の喧嘩でも、言い合いの材料に使うに違いない。「はー」遠くからも聞こえるように溜息を吐き、敷居を跨ぐ。鴨居の下を潜る必要はない。身の丈190ならば通れるよう、改良したからだ。
「なんだ」
二回目の問いかけはぶっきらぼうである。桜屋敷が一回目の問いかけへ答えなかったからだ。機嫌の悪さを示す南城に、一歩も動かない人物が手を差し出す。「ん」クリームを付けていない。「はぁ?」南城は難色を示した。これに桜屋敷の眉間に皺が三つも戻る。
「あ? いいから貸せ」
「嫌だ。どうせ良からぬことを企んでいるんだろ。腹黒狸め」
「お前みたいな阿呆ゴリラに策を講じてどうする。時間の無駄だ。脳筋ゴリラ」
「なんだって?」
「いいから貸せ」
「あ!! まだいいともいってないだろ!?」
小学生の頃から変わらない強引さを発揮する。頬に青筋を浮かばせ、一字一句聞き取れるように喧嘩を仕掛けてきた隙に腕を取る。グッと南城の手首を握り締めて、自分の方へ引き寄せてきた。崩れたバランスに、南城が足を浮かせる。手に持つ空の容器が床へ落ちかけた。「お、おい!?」驚く南城を余所に、ベタッと背中の方へ手を入れた。ジャケットの布地が、桜屋敷の手に従って山を作る。色気もなにも、へったくれもない。裸の南城の背中に張り手をし、そのままクリームを塗りつけた。「うわ!?」驚いた声を上げる。それを無視して、桜屋敷は手を下へ動かす。背中のラインを無視し、鬼が宿る筋肉の溝へ指の一本も這わせない。ある程度クリームを移したあと、手の甲で伸ばし始めた。指も伸ばし、クリームを摺りこませる。南城の肩がプルプルと震える。間接的に自分へ余り物を押し付けていることに気付いた。
「おい」
「よし。戻っていいぞ」
「なにが『よし』だッ!! 人の背中に勝手に塗りたくりやがって! どうしてくれるんだ!?」
「金欠ゴリラに買えない高い化粧品を塗ってやった。感謝しろ」
「押し付けじゃねぇか!」
「それがなんだ!?」
怒る南城に桜屋敷は開き直る。相手に合わせて怒髪天を巻いた。というより、幼馴染で犬猿の仲である。おまけに腐れ縁だ。これで譲渡を見せろという方が無理な話である。「棚からぼた餅だと思って、有難く受け取れ!!」「受け取れるかッ! ジャケットにシミが付いたらどうする!?」「知るかッ!」「この狸眼鏡!!」などなどと、額を突き合わせて喧嘩を行う。まるで子ども同士の取っ組み合いだ。しかし本人たちにとっては、至って真剣勝負である。「女みたいに肌の手入れなんかしやがって! この貧弱モヤシ!!」と南城が切り返せば「お前と一緒にするな! がさつゴリラッ!! 化粧水と乳液くらい使え!」「押し売り営業かよ。そんなもん、安いもので充分」「コロス!!」「どこでキレたんだ! お前は!?」肌の良し悪しや元から持っている体質にも依る。安価な料金で済む南城と違い、桜屋敷は費用を掛けなければ美を維持できない。着物と同様、白い肌にも直射日光は天敵だ。受けた紫外線は高い美容液でケアをし、一日の疲れを癒させる。髪にも同様のケアを施す。これで『AI書道家 桜屋敷薫』の見た目を維持していた。桜屋敷自身も、肌のケアに労力をかける。
それを、この男は安価で一瞬で済むと断言した。
これを許せない。何故なら、自分がここまで骨を折るならお前も骨を折るべきだとの意地が、桜屋敷の中にあるからである。
シュッと鋭い右ストレートが南城の頬を掠った。反射的に避けられたので、南城の頬へ軽い摩擦熱を作るだけとなった。目を点にした南城が固まる。暫くして、状況を理解して叫んだ。
「いきなりなにしやがる!? このすかたん!!」
「お前がふざけたことを抜かすからだ!! ぼんくら!」
「知らねぇよ! 俺が羨ましいからって、僻むなよ。陰険眼鏡」
「誰がお前なんかに僻むか! 間抜け」
「おたんこなす」
「ボケナス」
「どてかぼちゃ!!」
「低能ゴリラ!」
仕舞いには、心の中で中指を立てているような喧嘩を始めた。実際には、額を突き合わせて肩を怒らせての、低俗な罵り合いである。
気が済むまで喧嘩するものの、自ら退くのも気に食わない。「ぐぬぬぬ」散々言い尽くしたため、文句も出てこない。奥歯を噛み締め、唸りながら睨み合うことしかできなかった。さらに額を中心として、サイの頭突きのようなこともし始める。──サイという生物は、争いを行うときに角と鼻を用いる。全身を用いて押し合いをし、力に負けた方が去った──その動物界の喧嘩を始めたのである。
南城と桜屋敷の力が拮抗する。「いた」桜屋敷の意識が逸れる。和風のテーブルの角に脛が当たった。着物越しに触れたのであるから、痛みは感じない。触れる寸前である。これに南城が力を緩めた。その瞬間、拮抗した力が崩れる。「うわ!?」前方へ全体重の力を乗せた桜屋敷が南城の肩に頭を落とし、後退ろうと足を浮かした南城がバランスを崩す。桜屋敷と一緒に倒れた。ド派手な音を立てる。「この」「クソッ」使っていない罵倒の句が出てこず、睨み合いながら離れる。反発し合ったまま、距離を遠ざけていった。
桜屋敷は和室に残り、手に残るクリームを丁寧に指の間に塗り込む。すっかり量が減っている。どうやら、南城の背中に塗りすぎてしまったようだ。一方、南城はキッチンに戻って料理の続きに入っていた。
粗熱を取った料理に蓋をし、冷蔵庫にタッパーを重ねて入れる。イタリアの風土を入れた家庭料理を作り終えると、今度は桜屋敷のオーダーに従った。『和風』──白米に合うおかずである。残る材料でレシピを組み合わせ、アレンジを行う。桜屋敷の平手を喰らった背中の痛みは、いつのまにか引いていた。代わりに背中にぬめぬめとした感触が残る。
(オイルじゃないだけ、マシか)
苦い思い出を噛み締める。桜屋敷にもいえない、若い頃の失敗であった。