くちびるのやわらかさ

 唇の感触がどうも気にかかる。桜屋敷の唇に問題があるのではない。元より美肌の維持に手入れを欠かせない身だ。唇がかさつくことなど、滅多にない。作品のスランプで手入れをする暇もないときを除いては、唇の潤いは続いている。自分で触れば、薄皮が擽ったい。乾燥などしていない。問題は南城の唇の方である。あの男は肌のケアなどしてない癖に、唇はふっくら膨らんでいた。特に下唇が柔らかい。(リップは最低限しているということか)リップクリームは手軽である。南城のような物臭でも二つの動作ですぐ終える。だからといって、桜屋敷のために律儀に行うなど考えられない。どうせ女とキスすることを考えてだろう。軟派な女好きの性格に、ムッとする。嫉妬よりも苛立ちがまさった。「あのクソゴリラ」人の仕事の邪魔をするな、と。思考のノイズで入り込んだことに毒づく。一筆したため、考える。芸術家として仕事をしている身だ。そういう側面もある分、作品に妥協はできない。少し考えて、書いたばかりの作品を破棄する。どうにも気に食わない。『納品まで残り72時間43分です』カーラが親切に残り時間を告げた。とはいえ、仕事に身が入らない。どうしても、あの唇の感触が気にかかった。筆が止まる。破棄した作品より納得できるものの輪郭が思い浮かばない。(ヤバいな)このままだと時間だけが無駄に無闇矢鱈に過ぎてしまう。桜屋敷は危機感を持ち、一旦休憩を挟んだ。
 置き型デバイスに嵌めたバングルを取り出し、右手首に嵌める。人気の少ない昼間だ。ボードで滑りたいが、徒歩がマシだろう。〈AI書道家桜屋敷薫〉の面子に関わる。日傘の和傘を開き、炎天下を歩く。壺屋やむちん通りから "Sia la luce" の距離は遠い。バイクであれば五分もかからず着くだろう。それでは書道家として売りに出す顔の面子に影響が出る。それに、あの男のためにバイクを飛ばしたなどという印象を抱かれては、たまったものではない。この意地は南城にも向けられていた。
 暑い。小さい島を取り囲む海で暑さが和らいでいるとはいえ、汗は掻く。袂からハンカチを取り出し、肌を伝う汗を拭う。水分を補給したい。『"Sia la luce" まであと120メートルです』カーラが店までの距離を伝える。「ありがとう、カーラ」桜屋敷は愛しの人工知能に礼を告げた。ボードが恋しい。地面を蹴って滑ることをこらえ、店に着く。〝CLOSED〟の看板を無視してドアノブを捻れば、簡単に開いた。
 来客を告げるベルの音が鳴る。「今日は休みだ」来客の正体を見ずとも、店の主は告げる。桜屋敷は非難を無視し、ツカツカとカウンター席に歩み寄った。すかさずいつもの席に座る。日傘は隣の椅子に立てかけておいた。
「水」
「うちはイタリアンレストランだ! ったく」
 文句をいいつつ、カウンターキッチンに入り込む。厨房に面する壁に設置した食器棚を開き、中からグラスの一つを取り出した。マラソンの水分補給所と違い、グラスだ。キンキンに冷えた水をグラスに注ぎ、氷も追加してやる。「ほらよ」出された水を桜屋敷は一気に飲んだ。汗で流した水分が戻ってくる。
「もう一杯だ」
「途中で買ったりしなかったのか?」
 踏ん反り返る桜屋敷の要求に、南城は尋ねる。我が物顔で寛ぐ桜屋敷は答えた。
「金の無駄だ」
 グラスに入る氷の様子を見る。
「こっちもタダじゃないんだが?」
 水道水を沸騰させ、常温で冷まし、冷蔵庫でさらに冷やす。これらは手間賃のほかに水道光熱費もかかる。ドケチにはドケチの論法で返す。桜屋敷はなにもいわず、出された水を飲み干した。グラス二杯分の水が、桜屋敷の身体を休ませる。当分の渇きは退けたが、四百ミリリットル弱ではまだ不安だ。「もう一杯」桜屋敷は三杯目を要求する。「どれだけ暑かったんだよ」南城は呆れつつ、もう一杯水を入れた。
「で? なにを食べたいんだ。いつものでいいか?」
「なにか抓めるものを」
「今作った試作品でいいか?」
「いいだろう。食べてやる」
「何様だよ、お前は」
 殿様みたいな態度を取る桜屋敷に毒を吐きつつ、南城は厨房に入る。桜屋敷が来る前にできたばかりの一品だ。黒い陶器の皿に、ヨーグルトクリームが添えられている。その上にミントと、垂直に切ったイチゴの山だ。ヨーグルトクリームから離れた場所にナッツを散らし、山と丘と陸地を表している。白いスクエアと降り積もったシュガーパウダーは、さながら北極の涼しさを表したものか。南城の舌の手前、甘さは酷くないものであることが察せられる。(ふむ)桜屋敷は視認での分析を終え、舌での分析に移った。一緒に添えられたフォークを手に取り、白いスクエアを小さな一口に切る。それをフォークの切っ先で突き刺し、口に入れた。(うん)チーズだ。それも柔らかな口溶けであり、サッパリしている。ミルクの自然な甘さがあるのが難点か。桜屋敷の眉間に皺が寄る。その甘さが引き出すリキュールとドライフルーツの味で、どうにか食べられるといえよう。氷菓子のようにアイスを齧る感覚はない。南城の店 "Sia la luce" がイタリア料理店であることを考えると、イタリア発祥のものに違いない。(『カッサータ』か)最近巷のSNSで、料理を趣味にする者を中心に人気が広がっているという。この男は、律儀にも流行を考慮に入れたというわけか。小型のレーズンの糖度が高い。これは砂糖漬けによるものではなく、果実本来が持つ糖度によるものだ。無駄な加工をしていない分、素材本来が持つ良さを引き出しているといえよう。オレンジピールの酸味がミルクを打ち消す。アーモンドとピスタチオの食感が食べ心地を飽きさせない。クリームのコクが満足感を高めさせる。ラズベリーなど赤い果実も入っていた。
 夏は冷たさで表し、秋は果実とナッツで表す。残暑が長引く初秋にも十分出せる代物だ。
 口休めにヨーグルトクリームを掬い、垂直に切ったイチゴを口に含む。酸味のある花托の実とヨーグルトの相性は実にいい。ミントは好みで食べる者もいるだろう。ヨーグルトで休んだあと、残りのスクエアを食べる。敵視するミルクの残敵を探すが、チーズとリキュールの相性、ナッツやドライフルーツの食感と交配とで存在を消される。
 桜屋敷の皿に出された一品は、すっかり空になった。
「食えないこともない」
「リコッタチーズを使ったんだが、違和感は?」
「一口で止めてる」
 不味ければ牛乳の甘さを感じた時点で手を止めている──。たった九つの音で会話を省略して答えを出した桜屋敷に、南城は頷きもしなかった。桜屋敷と同様、その会話を省略する。黙って皿を下げて、カウンター側にあるシンクで使った食器を洗った。皿に降らしたナッツの一粒すら残さず、綺麗に食べられている。完食だ。牛乳が大嫌いな桜屋敷の厳しく辛辣な批評をクリアしたのだ。ひとまずは、ポイントを押さえたと見ていいだろう。そう冷静に分析し、南城は洗い終えた食器を拭いた。自然に乾燥する木製のトレイに置く。食洗器の節約だ。自分も休憩を入れようと、水を飲もうとした。
「ん」
 桜屋敷が指で来るように合図している様子が目に入る。それに南城はジト目になる。
「はぁ?」
「ん」
 南城に手の甲を見せたまま、くいくいと指を前後に動かしている。あからさまな催促だ。無言で「こっちに来い」と要求を突き付けてくる。
 これに応えてもいいが、素直に答えることは癪に障る。桜屋敷の都合が良いように動くみたいで、腹が立った。
「知るか」
「こっちを向け! 俺はお前に用事があるんだ」
「んっ。用事って、どんな用事だよ」
 そう真正面から用件を突き付けられては、無碍にできない。動揺と期待が喉を突いて声に出かかり、何食わぬ顔で振り向く。リラックスした柔らかい筋肉が豊満な谷間となり、組んだ腕と一緒に心臓を守る。無意識の防衛を出す南城を、桜屋敷は指で引き寄せようとした。
「もう少し」
「このくらいでいいか?」
「まぁ、いいだろう」
 南城は腕を組んだまま、目を瞑り続ける。頑なに開こうとしない。要求が通っただけまだマシだといえよう。桜屋敷は自分の特等席から立ち上がる。椅子を引き、カウンター越しに南城の襟首を掴んだ。「は?」伸びるシャツの気配に南城が両目を開ける。開いた視界が見るのは、シャツを掴んで引き寄せる桜屋敷の白い手である。「シャツが伸びるだろ!」と文句をいおうと身を捩る。肩を後ろへ引いた途端、桜屋敷の額と自分の額が当たる。「は」コツンとした食感に、南城の目が丸くなる。暗く熟した苺色の瞳が小さくなり、光を反射するオールドローズの色合いが面積を狭める、桜屋敷の顔が近付き、見開く目と反対に瞼を伏せた。深い蜂蜜色の瞳が、長い睫毛の隙間から南城を見る。触れた感触に、南城の肩がビクッと跳ねた。手の置き場所に迷う。反論しようと動いた手前、肘を持つ手は宙に浮いていた。仕掛けられてはどうしようもない。動いてはどちらも負けを意味する。桜屋敷の勝手な行動により、身動きが取れなくなった自身の状況に歯痒さを感じる。南城は目を閉じた状態を維持し、眉間に深い皺を刻んだ。堅く口を閉じ、首から下は一つも動かさないようにする。強硬な姿勢を取る南城に構うことなく、桜屋敷は自身が気になる点を追及した。──やはり、柔らかい。桜屋敷の薄い唇と違い、南城の唇は厚い。遺伝子自体が違うのだ。唇の厚さまで違うことは、当然といえる。硬く閉じた唇を柔らかくみ、もう一度重ねた。何度か繰り返せば、この男は徐々に態度の軟化を見せる。現に、唇の硬さが崩れ始めた。力が緩み、桜屋敷の唇で押し潰れそうになる。薄く目を開ければ、南城の鼻に寄った皺が消えている。眉間に刻んだ皺の深さも、浅くなっていた。
 乱暴に掴んだ襟首を掴みなおし、緩く引き寄せる。強情な態度を取る南城が、微かに瞼を持ち上げた。「あのな」「薫」文句をいいたげな眼差しだ。一言くらいはいわせてやろうと、桜屋敷は口を離した。
 少し距離を開け、襟首を掴む手の力を弱める。互いに互いの顔を直視できる距離になると、南城は口を開けた。
「あのな」
 予想通りである。聞く耳を持っては時間の無駄というものだ。桜屋敷は即座に南城の頭を掴み、引き寄せる。もう一度唇を触れば、疑問の解決へ近付いた。この状態が一番、懸念を解決するヒントを創出する。驚いた拍子に口を閉じても、その前に重ねれば小さく隙間が開く。粘膜の柔らかさではない。唇の薄皮はキスの摩擦でストレスを感じさせない。仮説の一つが確約の域へ浮上しそうになる。フラフラと女と遊ぶ根無し草さに、桜屋敷は腹が立った。小さく牙を立てる。唇の内側の肉を噛まれた感触に、南城が小さく息を呑んだ。この反応に一旦矛先を収め、舌を入れる。唇が柔らかければ、舌も分厚い。長い桜屋敷の舌に南城の舌が絡みつき、雁字搦めとなる。定石であれば、口内の探索をし始めるだろう。その予想を裏切り、桜屋敷は素直に身を引く。口蓋を撫でることもしなければ、舌の裏や歯を撫でることもしない。物足りなさと名残惜しさが、胸に一瞬だけ生じる。南城は桜屋敷を睨みつけた。それに物怖じもせず、桜屋敷は涼しい顔で南城の頭を放す。仕事の雑念となる疑問は消えた。平然とした顔を前にしては、もっとやれだとかの要求はいえない。南城は自分の口を手で隠し、桜屋敷を睨みつけながらいった。
「客商売だぞ」
 噛まれた唇を舐めてみるが、血の味はしない。怪我はしてなさそうだ。
「俺もだ」
 噛んだ側が噛まれた側に放つ台詞ではない。「邪魔したな」桜屋敷はグラスに残る水を飲み干し、席を離れる。「もう行くのか?」南城は確認だけ取った。夜の予定も、店での研究が終わったら入れようと思っていたからである。
「あぁ。立て込んでいるからな」
 この様子だと、夜を入れれるか定かではない。最悪、桜屋敷が店か自宅のどちらかに来る。高確率で夜食をたかりに、だ。抱かれる心配はないだろう。立て込む仕事が一段落しない限り、桜屋敷が自発的に抱いてくる様子はない。そこまでの自制は利く男だ。
「倒れたら線香の一つくらいは上げてやる」
「勝手に殺すな。ボケナス!」
 怒髪天を衝いた桜屋敷が振り返り、噛みつく。「なにも食うもんなくて家に来たことがあっただろ!」南城が過去の実例を持ち出せば「それは高二の話だッ!」と桜屋敷が過去は過去であると否定する。高校二年生の夏、桜屋敷は両親不在の間、カップラーメンに飽きて、南城に飯を要求しに訪れていた。桜屋敷の腹から鳴る音で、南城が折れたのである。「だったら自分で作れ」南城が頭突きをしようとすれば、桜屋敷がすかさず頭突きを加える。口論の最中に、離れていた距離が縮まっていた。すっかりカウンター越しで喧嘩をする近さである。「いわれずとも作ってる!」南城と同様、桜屋敷も頬に青筋を浮かばせた。口角を上げながら言い返す。南城の目尻が鋭く吊り上がり、口角が下がった。
「勝負で決めるぞ!!
「受けて立つ!」
 時間がないのに、桜屋敷は南城の勝負を承諾した。創造主の右手首で、愛される人工知能は考える。直近の締め切りまで、あと71時間も切っていたのであった。