失恋の痛みに泣く男

 入社してから引き継いだ担当の一つに〝Sia la luce〟というイタリア料理店がある。この辺りでは人気な店のようで、店主一人で切り盛りしているということだ。この担当だった先輩曰く「店主はムッキムキのイケメンタラシ」だそうだ。女や男でも口説くのか? と聞けば、オフの日に店主がナンパをしているところを見かけたらしい。店主の好みが女であるというのなら、心配はない。男を口説くわけはなかろう。しかしながら挨拶に出向いた瞬間「イケメンだな」と思ったのは事実だし、正直店主になら口説かれても悪い気にならなかった。きっと気持ちよく口説かれる雰囲気にしてくれるだろう、との期待があったからに違いない。毎週月曜、週初めにおおよそ使う食材を卸す。足りないときは店主自ら足を運ぶが、最も使う食材は纏めて発注するらしい。「ありがとうございます」「では、またお願いしますね」お願いするのはこっちだ、と口から出かけた言葉を飲み込む。客からクレームが入らない限り、担当が外れることはない。荷物を運んでサインを貰って帰るという、たった短い時間だけだが。この店主と会う良い口実になる。まだ仕事以外の会話をできた試しはない。しようとしても、うるさい心臓が喉の奥からせり上がって、言葉もなにも出てこなくなる。ただ馬鹿みたいに新人みたいな「うっす」と無作法な言葉が小さく出てくるだけだ。
〝Sia la luce〟イタリアンレストランのオーナーシェフに、恋をしていたといっても差し支えはない。
 店主とは週初めの朝にしか会ったことはないが、ただ一度だけ。昼間の時間帯に赴いたことがある。少量の追加発注があったからだ。幸い、会社にいたこともある。次の配送の道すがらに届けることができた。なので上司に確認を取ってから、店主に本日の昼間に届けることをメールで連絡を入れ、配達に向かった。ちょうどあの店はランチタイムが終わったところだ。夜の仕込みで店を閉めている。だから業者が入っても問題ないだろうと思った。裏口が面する道に車を止め、小ぶりの段ボール一箱を運ぶ。業者の搬入口も兼ねているので、ここにはインターホンがある。押してスピーカー越しに来たことを伝えるが、いつもの返事はない。扉越しに、喧嘩するような二つの声が聞こえるだけだ。誰かいるのだろうか? 少し待っていると、店主の怒鳴り声が聞こえる。「仕事だ!! 守銭奴眼鏡!」なら先に聞こえた声は「逃げる気か!?」だ。それは店主の声ではない。明らかに第三者の存在がいる。
 裏口が開く。どうやら鍵は開いていたらしい。
「すみません。お待たせしました。お忙しい中、ありがとうございます。えっと、サインを」
 困惑する店主の声で我に返る。あぁ、すみません。いえ、大丈夫ですよ。配達のついでだったので。はい、サインを。そう並べ立て、店主にペンとサイン欄を渡す。店主が書いている間にチラッと店内を盗み見ると、第三者がいた。ピンクのロン毛の和服を着た、目付きの悪い男である。店主の知り合いだろうか?
「はい。では、また来週もお願いします」
 店主のいう『来週』とは、来週の月曜日のことだろう。ハッと気付いて、はい、こちらこそ。と答えて紙とペンを受け取る。店主が触っていたと考えるだけで、胸がドキドキする。「では失礼しますね」と穏やかに店主は笑って、裏口を閉めた。第三者の存在は気になるが、店主の私的な知り合いで間違いないだろう。まだそんなことを聞けるほど親しい間柄ではない。
 扉越しから聞こえる険悪な喧嘩の声を聞きながら、車に戻る。
 それが数週間前の出来事だ。
 今、オペレーターの伝達ミスで発注を間違えたミスの謝罪で、この店に来ている。〝Sia la luce〟とアルファベットが並ぶ店名だ。〝Cielo Claro〟と間違えても、仕方ない範囲だ。〝Sia la luce〟の卸す商品に同じ商品が被っていたこともある。ミスを責めても仕方ない。その減らした分を持って謝罪に来たところ、だ。
 何故か店主が下になっている。
 あの筋肉がすごいムキムキマッチョの店主が、下である。
 店でAVを見ているんじゃないかと思った。男の上擦った声はゲイのポルノものでもよく聞く。ちょっと店主の声に似ているな? とは思った。ポルノにしては「かおる♡ かお♡♡ ッる♡♡♡」って具体的に人の名前をいっているな、と思った。インターホンを何度鳴らしても、誰も出ない。ペチペチと肌を叩く間抜けな音に、ヌポヌポとナニかを抜く音も聞こえる。食品を提供する店でオナニーとか、マジかよ? そんなことをするような店には見えなかったんだけどな。耳の気のせいだろう。そう思って、扉を開けた。裏口の鍵は開いている。もしかしたら、表の扉もそうだったんだろう。
 店内に顔を上げた途端、男と目が合った。
 数週間前、ディナーの仕込みで店が閉店中のときにいた客だ。店主の身内なんだろう。知り合いなんだろう。と思っていた。そのピンクのロン毛の男が、汗だくになっている。普段は綺麗に梳かれた髪が、激しい運動をしていたかのように乱れていた。髪が頬にくっ付いている。額もだ。眼鏡は曇り止めをかけているのか、水滴が付着するだけで曇ってはいない。肌が白いからか、顔が紅潮している。カウンターの席は、トイレと裏口に面する通路側に仕切りの壁を設けている。だから、誰がカウンターに突っ伏しているかもわからない。
 ただ、褐色の筋肉質な足が、カウンターの壁から覗いていた。多分、カウンターの壁に膝をくっつけたりとか、そういうことをしていたんだろう。「ぁ、あ♡」余韻に浸る声も聞こえる。それは今、目が合う男からではない。カウンターに突っ伏す身体からだ。
 店主は出てこない。数週間前、仕込み中で鍵を掛けた店内にいた男と目が合う。店主はいない。不在なら鍵を掛けるべきだ。常識に照らし合わせると、この男に店の鍵を渡したと考えなければ不都合だ。
 動きが止まったことが不服なのか、カウンターに突っ伏す身体が動いた。グッと足に力を入れている。シシャモの腹みたいに膨れ上がった脹脛の筋肉の動きが、なんか店主を思い出させた。
「はぁ、どうしたんだよ。薫。もう降参か?」
「黙れ。馬鹿ゴリラ」
 あっ、と凍った喉から小さく声が出る。反射的に「失礼しました」の謝罪が口に出て、ピシャッと扉を閉めた。頭のてっぺんから氷を入れたみたいに、脳が凍る。「今、誰か来たのか?」店主が男に尋ねる声が聞こえる。「だったら電話でもしてみろ」「んっ♡ この状態でやらせるとか♡ ほんっと、ぁ♡ 性格悪いな、メカキチ♡♡」「喘ぐか感じるか喧嘩を売るかのどっちかにしろ。ビッチゴリラ」あれ。なんか、いい具合に出汁にされたように感じる。もう感情と状況の整理が追い付かなくて、車に戻った。
 あぁ、オペレーターがミスった商品を配送して謝罪をしないと、会社に戻れないんだった。
 涙ながらに現実を思い返す。衝動に従うならば、海に向かって叫びたい。だが社会人であり仕事中で会社に属する一個人でもあるので、下手な真似はできない。いいよなぁ、自営業って。そうした辺りも全て自己責任で賄えるんだから。
 そう車の中で泣きながら傷心が落ち着くまで待ってたら、二時間も経っていた。まだ他の商品を配送し終えてない。方々に謝ってから、道で誰かが倒れてたので救護していたと嘘を吐こうか。言い訳を考えていると、扉をノックされた。覗くと、あのピンク色のロン毛である。
 セックスが終わったのか、身嗜みは整えている。しかし、体臭は数発吐き終えた精液特有の臭いを漂わせていた。着物特有の匂いを混じって、微妙だ。「はい」窓を開けると、男が口を開く。
「荷物を持って来たんじゃないのか? 代わりに受け取っておこう」
 いや、それは本人じゃないと。傷付いた身体でどうにか説明すると「サインだろ」男が偉そうにいう。お前はなんだ。ウチの取引先でも卸先でもないだろ。「アイツは今動けない状態にある。サインは書かせるから、荷物を寄越せ」本当、なんなんだコイツ。イラつくが、今は口に出せる余裕はない。喧嘩をする余裕なんて、特にだ。
 車から降りて、店主に配送する予定だった荷物を渡す。「オペレーターのミスで、商品にミスがあり」謝罪を述べようとすると「あぁ」男が遮る。
「あのゴリラのしそうなことだ。サインを貰ってくる。少し待っていてくれ」
 お前はなんなんだと。そこまで店主のことに詳しいのか? フツフツと怒りが湧き起こるが、涙しか出てこない。悲しい、悲しみで心が苦しくなる。
 顔を伝う涙を乱暴に拭ったら、ピンクのロン毛が店から出てきた。渡した荷物はなく、受け取りサインの紙だけを持っている。
「これでいいか? くれぐれも、今回のことは他言無用にするように」
 お前も女を誑かす一人か。しーっと人差し指を口に当てる男にそう思う。なんだ。顔のいい男と顔のいい男は惹かれ合う法則でもあるのか。この世界はッ!! そう泣き言が口から出そうになったが、実際出たのは「はぁ」である。所詮は一般人ということだ。
 受け取りサインを貰うと、男は振り返ることもなく店に戻った。どうせまた店主を抱くんだろう。それか、仕込みを行うからやめるか。どっちかだろう。
 店主が書いたサインを見る。いつもと比べて、文字が震えていた。その原因を知りたくなくて、探る思考を無理矢理止めた。
 頭を横に振る。
 明日から、どんな顔をして店主に会えばいいのか? 社会人としての理性が失恋の痛みを無理に止めた。
 泣きたい。
 ほんの少しだけ泣いてから、車を走らせた。