残り香

 熱した鉄の上で脂が弾け、肉が焼かれる。その音と食欲をそそる香りとで、桜屋敷は起き出した。『おはようございます。マスター』真っ先にカーラが朝の挨拶をする。身動ぎをした桜屋敷は、挨拶をしたような気になる。まだ眠い。寝惚けた頭で枕に顔を戻す。鼻を近付けた途端、自分と虎次郎の匂いがまだ残っていることに気付いた。長年同じ香りを身に付ければ、皮膚に香りが沁み込む。女をナンパするときに身に付ける、雄々しくたくましい存在を強調する香りは、とっくの昔に消えていた。乾燥した木材のチップに近い、ウッディ系の良い香りだけである。桜屋敷の香りによって掻き消されたといっても過言ではない。肌を密着させるものだから、香りは混ざる。女を抱くときに見せる率先さで行為に誘うものの、抱かれているときは主に大人しい。口を出せば反発する意志を提示するが、抱かれている最中はされるがままだ。つまり受け身である。主導権イニシアティブは桜屋敷にあるあかしだ。
 寝具に残る香りで機嫌がよくなり、桜屋敷は起き出す。もぞ、と枕元の近くに置いたカーラを手繰り寄せた。バングルである。デスクトップ型に近付くまで、カーラはバングルのままである。桜屋敷の手首を感知して、カーラは話しかけた。『本日はいつもより一時間早い起床です』睡眠サイクルの報告だ。「ふふっ。そうか」桜屋敷は笑う。寝間着の浴衣から襦袢に着替え、部屋着の着物に姿を整える。帯を慣れた手付きで締め、長い髪を緩く結んだ。朝飯の前に身なりを整えなければ不便が生じる。先に歯を磨き、洗顔から肌の手入れに髪の手入れ。諸々の仕度を行う桜屋敷が、キッチンの近くを通りかかった。横切る気配に、台所に立つ南城がいう。
「なぁ、薫。お前んとこのって、ガスコンロとかにはしないのか?」
 奇妙な質問である。無視をしようとした桜屋敷は思わず立ち止まって、身体をキッチンへ戻した。
「はっ?」
 顔を顰め、背中を反らした状態でキッチンを見る。「いや、なに」南城はテキパキと料理を運びながらいった。
「IHより細かい火加減ができるもので、味を追求したらそっちの方がいいんだよな」
「知らん。文句があるなら使うな。馬鹿ゴリラ」
「俺の家だと小さすぎるんだよ。こう、腰のところまで屈まにゃならんし、使いにくい。作るとしたら店が一番だな」
「なに? お前、女を飯で釣ったことがあっただろ」
「あれは一緒に食べに行く前提での話だ。現地でナンパするときは、女受けの良い店があるかどうかのチェックをしてからが勝負なんだよ。守銭奴眼鏡」
「くだらん。だから万年金欠なんだろ」
「使えるときに使っとかないと、宝の持ち腐れだろ。ほら。できたぜ」
「仕方ないから先に食べてやる」
「何様だよ。お前は」
 会話をしている間に距離は縮まり、額の衝突が始まる前に料理が食卓に並ぶ。出来立てだ。湯気が立つそれを逃がしてしまっては勿体ない。桜屋敷は相手を立ててやるような言い方で席に座り、南城はその態度に不満を見せる。口先だけの態度すら、取り繕うともしない。これが客であれば「ではお言葉に甘えまして」と好青年の笑顔で応じるはずだ。それがないということは、自分だけの特権ということになる。桜屋敷特有の寄り掛かり方だろう。南城は胸にこそばさを覚えながら、居心地悪く席に着いた。既に桜屋敷は箸を付けている。
「ふむ。悪くはない」
「桜屋敷先生は料理をしない代わり、活きのいい食材を仕入れているからな」
「喜べ。昨夜のうちに解凍をしてやったぞ」
「それをやったのは俺だ!! 人の手柄を勝手に横取りすんじゃねぇ!」
「元はといえば俺の手柄だッ!! どうしても現金の他にお礼の品を贈りたいというんでな。有難く受け取ったまでだ」
「不正取引とかにならないだろうな、それ」
「問題ない。一銭一円漏らさず、カーラに帳簿を付けさせている」
『為替の変動で外貨の価値が変わることもあります』
「外国からも仕事取ってんのか? まさか、支払いが金塊なんてことは」
「輸送の関係上、誤解を生む恐れが大いにある。よって、電子通貨だ」
「あっそう。ちゃんと使えるのか? 詐欺じゃないだろうな」
「詐欺に引っ掛かるゴリラと一緒にするな」
「んなのに引っかかった覚えはねぇよ」
美人局つつもたせ
「一発でわかる。捕まる前に口説き落とすに限る」
「お前、本当相変わらずだな」
 呆れる桜屋敷に南城はなにもいわない。ズズッと麺を啜るだけだ。せっかくの可愛い女の子が声を掛けてきたのだ。この機会を逃しては女好きのナンパ癖の名が廃る。実際、口説き落としているうちに相手が気後れして去ってしまう。南城の場合、美人局を逆手に取ってナンパした方が有利だった。それを桜屋敷に話す必要は、わざわざない。口に出して伝えるまでもなく、既に察しているからだ。南城も南城で、桜屋敷の察知に甘える。冷蔵庫と食器棚、それらに入ってるものを使ったが、まぁ美味い。
「まさか、そば・・のインスタントがあったとはな」
「安かったな。ふむ、不味くはない」
「余計なお世話だ」
 会話が終わる。料理をあまりしないように見える桜屋敷の家にアーサーがあることは驚いたが、〈あおさ〉の効能を考えたらわかる。美容に気を遣う桜屋敷が、手軽にミネラルやビタミンを取れるものを見逃すはずがない。それに高タンパク質な豆腐と味が合う。ズッと南城は味噌汁を飲んだ。こちらもインスタントで作ったが、目分量がちょうどよく働いた。料理人の勘は今も健在である。現役で腕が落ちたら大問題だ。藻の〈あおさ〉をかきこむ。抱かれて一番疲れるはずである南城が、朝から料理をしている。朝食を準備する側は、断然抱く側のはずだ。しかし生来の低血圧からか、桜屋敷は中々起きない。最悪昼頃までなにも食べず、南城が起きる頃合いを見計らって「腹が空いた」という。そんな太々しい態度を、南城は心の底から否定できない。そこまで俺の作った飯でないと満足できないのか、と。小さい子どもが味わう独占欲の充足感が、彼を完全なる否定から遠ざけるためである。
 認めたくない事実に、空のお椀を置く。
「食い終わったらシンクに入れておけ。洗っておいてやる」
「駄賃を弾んでやろう」
「ドケチ眼鏡にしちゃ特殊な心掛けだな、って! ただもう一回シたいだけか!?
「んなわけあるかッ!! ただのリップサービスだ」
「金出せよ」
「色ボケゴリラの要求には応えてやる」
「そっちじゃねぇよ!」
 南城とでまだ男だ。やはり素直に抱かれる側であるとの立場は享受できないのか、度々反発する。桜屋敷は相手にせず、食卓から離れる。呑気に寛ぐ南城と違い、仕事が入っているのだ。客とリモートで会う前に、仕度を整えなければならない。洗面所へ向かった。
 キッチンと繋がるダイニングに、南城は残される。空になった皿が並ぶ食卓に、こそばい気持ちを隠し切れない。ムッと固く組んだ腕を解き、テーブルを片付け始めた。「あの陰険眼鏡」悪態を吐く。無意識に偽装した照れ隠しは気付かれることなく、ゴミに投げ捨てられる。
 食器を洗い終わった南城が、乾燥機に皿を突っ込んだ。
 歯を磨きながらスマートフォンを探す桜屋敷が、気付いたようにいう。
「あぁ、忘れてた。おい、そこのゴリラ。服くらい着ろ」
「着てるだろ!! それともなんだ? 俺の筋肉が眩しくて目も当てられないっていうのか? モヤシ眼鏡」
「阿呆かッ! 目が腐る。上も着とけ!! 露出狂ゴリラ」
「こっちの台詞だ! ヒョロ眼鏡!!
 歯磨き粉の泡を飛ばしただけでなく、中指まで立ててくる。負けじと南城も中指を立て返した。仲良く喧嘩をする二人は健康である。何事もなく、喧嘩が始まったのであった。