非常に気まぐれな生物の代表として、猫が挙げられる。表の顔がAI書道家である桜屋敷は、猫好きの一面を隠していた。表面上は穏やかに交渉を進め、時に笑みの下で狡賢く手引きをする。そのような行動から考えられないほど、猫が好きな一面を持っていた。人気のないパークで滑れば、時折野良の猫が顔を見せる。隠し持っていた最新型の猫じゃらしで、猫の気を引こうとする。その試みは、いつも失敗に終わっていた。猫は見向きもせず、茂みの向こうに隠れる。桜屋敷は落ち込みつつも、愛機カーラとトリックの練習に戻った。猫好きの一面も、商売として売りに出そうか迷ったことがある。野良猫を保護して里親に出す団体への寄付も考えた。だからといって、猫が寄付した人間を好きになるとは限らない。調べては、今後の回収率も考えて一旦計画を寝かす。人工知能の精密な計算に即した滑りができる男は、計算高い頭脳も持っていた。
そんな打算的なところがある男の日常が、ある日突然変わる。
リモートで打ち合わせが終わり、依頼で求められた作品について考える。気分転換に縁側を歩くと、カサッと音がした。中庭の方からである。サンゴ礁の石灰岩の塀には誰もいない。山間の谷間を流れる川を表現した白砂は、グルリと桜を取り囲む。桜屋敷の書庵にある桜は、細く短い幹でありながらも、力強く複数の腕を伸ばす。それらは人間の骨格のようにしっかりとしていた。白砂の水面だけでなく、塀の向こうにある道路にまで顔を出した。桜の花の代わりに、青々と緑の葉を茂らす。陸の孤島となる苔むした小さな丘に、木陰を落とした。筑山には、石と背の低い多年草がある。『つわものどもが夢の跡』──大きさも高さも異なる景石と、苔の合間から小さく生い茂る雑草が、長い時の移り変わりを示した。京の侘び寂びを感じさせ、白砂に鎮座する白い大きな石が蓬莱山を意味する。和を重んじる桜屋敷が書道家として忘れないことを、刻み込んだ庭だ。そこからひょこっと、唐突な来訪者が現れる。
猫である。
不思議なことに、この猫は野良にしては毛並みがいい。どこかの飼い猫だろうか? それにしては初めて見る。桜屋敷の庭に、猫が入り込むことはない。壺屋やむちん通りの人の気配が多い立地の条件に、書庵を構えているからだ。野良の猫であれば、人通りの少ない細道や裏通りで見かけるはずだ。それすらないとは、元は人の手で飼われた猫であることが伺える。大方、室内で飼われただろう。桜屋敷書庵の中庭に紛れ込んだ猫は、そうっと顔を出した。
白砂が作る川の流れが、猫の肉球で堰き止められる。桜の木がある塀から苔の孤島まで歩いた猫は、清流の中に大きな岩がある水の流れを、新しく作った。
白い砂が肉球と指の間に入る。挟まった白く小さな砂は、白砂の流れに身を戻す。それでも新たに小さな白い砂は肉球と指の間に入り込み、やがて土の上に身を落とした。
猫は一直線に、自分を見つめる桜屋敷の元に行く。三毛だ。それにしては白の面積が多い。毛は長く、暫くは人の元で世話されていたことがわかる。ヘーゼルナッツの葉のように明るい緑ながらも、時折ナッツの香ばしい明るいブラウンの色合いを見せる瞳が、大きく桜屋敷を覗き込んだ。
ニャァ、と一鳴きする。それは「こんにちわ」と人間に挨拶するようであった。
「あ、あぁ」
『野良猫を直接触ると危険です。着替えることをオススメします』
「ふむ。そうなるな」
挨拶をした猫に狼狽えると、優秀な人工知能が桜屋敷に助言する。愛する人工知能、カーラのアドバイスで、桜屋敷は冷静さを取り戻した。今まで猫にそっぽを向かれた身、こうして好意的に接せられると困惑する。(さて、どうするべきか)このまま追い出すなり見逃すなりすれば、なんとなく勿体ない。さりとて今に手を出してしまえば、以前の二の舞を見る。判断に苦しむ。『直接触ることをオススメしません』優秀なカーラは二度忠告した。それもある、と桜屋敷は心の中で頷いた。右手のバングルにいる桜屋敷の優秀な人工知能は、神経線維の電気信号を皮膚越しに感じ取って察した。実に優秀である。悩む桜屋敷を見た猫は、強引にも書庵の中へ上がり込んだ。
ぴょん、と中庭から縁側の廊下へ、一跳びで乗る。
「おい、こら! 勝手に上がるな」
桜屋敷が声を上げる暇もなく、猫はスタスタと寛げる場所を探す。猫の警戒心が薄く、人馴れしているといえた。猫の毛並みのこともある。きっと元は飼い猫に違いない。賢い猫は少し開いた扉に手を入れて、スパッと開ける。畳の間から廊下に移って、ゴロンと寝転がった。木の床がとても冷たい。猫の体温を吸い上げる。桜屋敷は廊下に転がる猫を見る。
「おい」
猫の扱いがわからない桜屋敷は、迷惑そうに声をかけることしかできない。それを猫は気にしない。ぐぅう、と強く背伸びをする。猫の身体が緩く弧を描き、ニョキッと爪の先を見せる。できれば爪とぎをしたいところだ。家主を慮って床や壁、柱や畳にしないだけ、まだ人間を気遣える猫といえる。「はぁ」桜屋敷は溜息を吐いた。この場合、どうすればいいかわからないからだ。困り果てる桜屋敷に、カーラが助言する。
『猫がオフィスへ入った場合、ビジネスへ大きく影響を与えます。保護がよろしいかと』
「なに
!? 猫は仕事の邪魔をすると聞いたぞ?」
『観察したところ、外に出て日が浅いと見られます。迷い猫の可能性が高いです』
「なるほど。飼い主が見つかるまで、ということか。それなら悪くない」
『SNSで猫を保護したと投稿したときに起きた炎上傾向の分析完了。マスターにこの件を発表することはオススメしません』
「なんだと
!?」
『ウェブではなく、口コミに頼った方が、世間のマスターに対する信頼と評価が上がります』
「ぐ、それを使えば一石二鳥だと思ったが、仕方ない。引き続き調べてくれ」
『オーケー、マスター』
人工知能のカーラは桜屋敷の思考回路を学習し、期待される情報の分野を捜索する。桜屋敷は自前の携帯端末を取り出し、猫を一時保護する際に必要な手順を調べ始めた。最新型のスマートフォンである。〈猫 迷い猫 一時保護 保護〉ワードが重複するが、その方が求む情報は見つけやすい。半自動生成の情報を無視し、公的な機関が出す情報に絞り込む。桜屋敷の住む地域の区画で情報を探せば、数件ヒットした。公益社団法人、と大層な名前が付いている分、信用がしやすい。そのページにある情報とリンクをクリックし、詐欺ではないか精査する。クリックした先は404でもないし、最新の情報に繋いでいる。啓発するページも、リアルタイムに基づく説明の仕方だ。この情報を元に、桜屋敷は次に打つ手を考える。
(自治体や保健所に連絡、か)
動物愛護センター、は保健所に入るのではないか? その辺りは地域により異なる──ということもあるかもしれない。チラッと廊下で寛ぐ猫を見る。猫は人間の視線を受けてか、ゴロンと寝転がった。桜屋敷書庵を自由に闊歩する様子も、出て行く様子もない。飼い猫である可能性も高そうだ。
『拾得物届も必要かと思います』
桜屋敷のスマートフォンが検索した内容を踏まえて、カーラが助言する。「それもそうだな」と桜屋敷は頷いてから「ありがとう。カーラ」と礼をいった。このような柔和で素直な態度は、溺愛するカーラにしか見せない。
引き続き調べものを続けようとすれば、カーラが目聡く情報を渡す。桜屋敷書庵は厳密にいうと、施設ではない。よって、直接最寄りの警察署か交番で届け出を申請する必要があるらしい。猫を一匹拾っただけで、随分手間のかかることだ。『動物病院に連れて行きますか?』賢いカーラは、最寄りの動物病院を探し出す。予約もしてくれそうだ。「あぁ、頼む」和服のままでは都合が悪い。不用意に周りにAI書道家の印象付けを行う他にも不利な点がある。着物に動物の毛が付くのだ。着物は繊細故、髪の毛一本を取ることすら気を遣う。毛のある動物に抜け毛が多いことを知る桜屋敷は、この姿のまま行くことを避けた。
猫が逃げないよう、窓や扉を閉める。しっかりと鍵をかけ、冷暖房を付ける。人間にとっても、猫にとっても過ごしやすい気温に室内を調整した。廊下の端に寝転がんだ猫は、壁に腹をくっつけたまま、ぐぅっと身体を伸ばした。くわ、と欠伸もする。そんな呑気な猫が与り知らぬ場所で、桜屋敷は用意をする。桜屋敷は心配する。猫はスルリ逃げ込む。
「調子づくなよ。腐れ眼鏡」
呼び出された南城が口を開く。
「他のヤツに頼めよ
!?」
「調べたらなかったんだ! ボケナス
!! お前が一番都合が良いんだ。ここで見たことを外部に漏らさないからな」
「ったく。見返りはあるんだろうな?」
「猫と戯れることができるだろう」
「チャラになるかッ
!! 俺はなぁ、久しぶりのデートを楽しんでいたところだったんだぞ
!?」
「それこそどうでもいい。どうせその場限りだろう。猫と過ごす方がよっぽど有意義だ」
憤る南城に、桜屋敷は腕を組んで踏ん反り返る。桜屋敷が猫をバスタオルで捕らえて、比較的使った大きい洗濯ネットに入れていた頃、南城は久しぶりの休日を楽しんでいた。
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