8. 逃げ場のない駐車場

「チェリー、ジョーの前途を願いまして、音頭を取りまぁーす!!」「おーい! そういうのはいいぞぉ!! レキ!」「ふん、後輩に見送られるのは悪くない気分だな」「レキ、乾杯だけして終わりじゃダメなの?」「一応、日本なりのやり方ってのがあるんだけど?」「プリザーブドフラワーは世話しなくてもいいが、埃くらいは取れよ」会社を去る当日の夜、会社の親しい者から盛大に見送られる。ジョーやチェリーのファンは退職日の朝に大きな花束を渡し、今生の別れを惜しんだ。「もし店ができたら、来てくれよな」「来てくれたら嬉しいぜ」と、退職後の予定を公衆の場で漏らした。桜屋敷もまた、南城に出遅れたことは許せないのか。花束を渡したファンに聞こえる声量で、ぼそりと呟く。「もしかしたらどこかで会うかもしれんな」例え一時的に熱狂したとして、崇拝した対象に抱く感情は色褪せない。桜屋敷が与えた水と栄養で、静かに見送ろうとしたファンは熱狂した。この悲鳴に、ジョーのファンは対抗心を燃やした。これも今日で見納めである。最後の夜に、スネークが愛抱夢の感謝と労わりと祝福の気持ちで選んだ品だということで、酒を貰った。ヴィンテージは、ちょうど互いの夢を話し合った年のものである。愛抱夢も忘れてなかったということか。ほんの少し、胸に引っ掛かった疑問が消える。小さな取っ掛かりであったが、愛抱夢もきっと来てくれるだろう。そんな日が来るかもしれない。旧友が顔を見せる微かな期待を抱いた。
 酒の栓は開けない。今はそのときではない。愛抱夢からもらった酒を飲むには、日と機会を改めるべきだ。
 車の中は狭い。南城の図体はデカいし、跨らせるにも座席の幅が足りない。それに余計に車も揺れるであろう。座席を倒すにも、長さと幅が足りない。
「がっつくなよ。発情眼鏡」
 受け身に回り、抱かれる側であるというのに余裕を見せる。低く艶を滲ませた声色で、南城は挑発する。
「人に言える立場か? 淫乱ゴリラ」
 挑発に対するカウンターは、これが適切であろう。ギュッと南城の眉間に皺が寄る。一瞬でも吊り上がった眉は、飄々とした感じに戻った。
「お前ほど飢えちゃいねーよ」
「飢えてるのはそっちだろ。抵抗一つすらしない」
「してほしいのか?」
「車が壊れる」
「そっちかよ」
「そうだが?」
 こうした軽口の叩き合いも、しばらくはできなくなる。「イタリアに行くのか?」肌蹴たシャツはスラックスから裾を出し、褐色の肌を露わにする。肌着のシャツも捲られ、白い手の良いようにされた。触り、撫でる手付きに南城の喉が震える。「手続きが済んだらな」それに勘を取り戻す必要もある。それの準備も必要だ、と跳ねる声の狭間に伝えた。「そうか」最後に抱くとしたら、車の中となる。果たしてそれでいいものか。とにかく虎次郎の穴に入れたいという欲だけが頭を突き動かす。口が一番手っ取り早い。だが、使う気分にはなれない。桜屋敷の視線が南城の唇を撫でる。その輪郭に沿う視線に、抱かれる当人が気付いた。「準備はできているか」唐突に桜屋敷が尋ねる。「できてねぇよ。馬鹿野郎。そういう話もしてないだろ」「じゃぁ、できるか」なにが、じゃぁ、か。どこからそう話が繋がった。南城の頭の中でツッコミが炸裂する。そもそも、どうしてこちらがケツの準備をしていることが前提となるのか。否定できないだけ、悔しい。黙り込む南城に、桜屋敷は畳みかける。「挿入れたい」「甘えてもダメだ」「甘えてない。当然の欲求だ」「どこがだッ!?」「許可を取ってるだろう」「話になんねぇな」だからお前は女に振られるんだぞ、とダメ出しが口から出かける。今はそういう話をしたくない。女なら抱かれるにも楽だろう、との生物学的な構造に対する嫉妬は、少なくともある。
 プイッと南城は顔を反らす。狭い車の中で、桜屋敷は覆い被さる。
「いつ出発する」
「あー、すぐには無理だな。準備に時間がかかる」
「計画的にしろ」
「ネチネチ細けぇんだよ。重箱の隅ピンク」
「お前が場当たりすぎるんだ」
「あぁ、一緒に行くっていうのか?」
「そんなわけないだろう。阿呆」
 こうもハッキリと断言されては悲しいものがある。微かに抱いた希望を否定されて、南城は少し泣きたい気分になった。下は萎えても、胸に興奮は残る。桜屋敷は器用に弛緩する筋肉の胸を揉んだ。力を入れてないものだから、柔らかい。先端は敏感に血液を集中させ、硬くなる。キュッと指先で擦り付けるかのように抓んだ。南城の太い腰が桜屋敷に向かって跳ねる。微かに硬いものが当たった。
「俺だって、やることがある」
「例えば?」
「AI技術の学び直し、とかだな。随分と離れたこともあって、独学よりも入り直した方が早い」
「へぇ」
「ついでにインターンを活用して技術を盗むか」
「えげつねぇ」
「時間と金を考えたら、効率的だ」
 根拠を強めるように、桜屋敷が強く抓る。中々にこの刺激が心地いい。南城は身を捩る。日本車の車は、長身の男にとって小さい。背凭れの頭に首を擦り付け、車の壁を蹴る。はぁ、と重く熱く息を吐いた。どうにかしてでも声を押し殺したいらしい。
「気が向けば、行ってやらんこともない」
「イタリアにか?」
「飯を奢れよ」
「『作れ』の間違いじゃないのか?」
「いってろ」
 そう罵倒を吐き、文句を吐き続ける口を塞ぐ。どうやら、この関係性は離れても続くらしい。桜屋敷が行う手応えに、南城は少しばかり安心した。口が離れる。桜屋敷が熱っぽく見つめる。それに可笑しさを感じ、南城は口に出した。「このままやるつもりか?」なにも準備を施してはない。もし肯定するつもりなら、血塗れになるぞと脅してやろう。どちらにしても、血塗れだ。桜屋敷のブツは血液で赤くなるだろうし、南城は暫く通院となる。「いや」意外にも桜屋敷は否定した。
「虎次郎の家に行けば、できるんだよな?」
 ジト目で睨みつけ、口調に学生の頃のものが入る。下半身に愚直に動くというのに、どうやら我慢する根性は見せるらしい。南城は可笑しくて噴き出した。「あ?」桜屋敷の機嫌が一気に急落する。これは危ない、お預けになる。「わりぃ」目尻に涙を浮かばせたまま、南城は笑った。
「できる、できる。時間はかかっちまうけどな」
「どのくらいだ」
「一時間、が早い」
「はぁ? そんなにかかるものか?」
「事前に仕込んでないからな。こういうのは、時間がかかるんだよ」
「口の方が早い」
「どっちだ」
「待つ」
 青筋を浮かばせ、ドスの効いた声で尋ねる。ジト目で苛立ちを露わにする南城を、桜屋敷は聞き流す。ハッキリと、当初と目的が変わらないことを告げた。本当に待つらしい。
「先に出すんじゃねぇぞ。早漏」
 罵倒を吐きつつ、釘を刺す。途中で興が冷めて寝るんじゃないか。と不安が過る。
「イき狂うなよ。淫乱ゴリラ」
 逆に桜屋敷は釘を刺し返した。呆れる南城と反対に、こちらは頬や米神に青筋を浮かばせている。復讐に燃えているといっても過言ではない。「そんなに善かったか。俺の身体・・が」南城は強調する。「戯け」桜屋敷は罵倒で一蹴した。すぐに車から出て、自分の車へ戻ろうとした。運転席に置いた酒を、忘れず取る。桜屋敷に首で指示され、腹が立ちながらも従えばこれだ。助手席にいた南城も、車の外に出た。
 自分の車に戻る桜屋敷の背中に、南城は声を投げる。
「場所、知ってんだろーなー?」
「戯けッ!!
 中指を突き立てるオマケ付きだ。勢いよく扉を閉め、桜屋敷は発進する。それにケラケラ笑いながら、南城も車を出す準備を始めた。このまま遅れると、桜屋敷からネチネチいわれるであろう。そんな小言など、こちらからお断りだ。車のエンジンをかける。ブレーキを踏み、ドライブのイニシャルに変える。明日は朝まで起きられなくなりそうだ。そんな休日のことを考えながら、南城は車を発進させた。
 駐車場に誰もいなくなる。南城や桜屋敷が退職した後のことは、ポツポツと入る情報でしか知り得ることはできなかった。