suger let kiss

 酒と同じように、未成年の頃に喫煙をした。初めて煙草を吸った愛抱夢は、舌に燻る苦味と喉を擽る煙たさに咳き込んだ。喫煙の処女を卒業した桜屋敷と南城は、愛抱夢のファーストコンタクトに笑う。戸惑ったのも一回だけで、口にした二回目にはすっかり吸い方を覚えていた。桜屋敷よりも、煙草に慣れるまでが早い。南城は未だに苦さと舌の麻痺とで躊躇いを覚えているのに、だ。そこから数年して、桜屋敷はすっかり煙草を止めた。和を重んじる書道家としてのイメージを大事にするためである。煙草の匂い一つで、築き上げた好印象が下がる。〝S〟のときでさえ、煙草を口にしようとしない。仮面を含むプライベートな空間で、煙草を嗜む愛抱夢と違い、一本も口にしていない。愛抱夢から別れを切り出されたあと、自然と煙草から遠退いたのである。南城もまた、あれから煙草を口にしていない。桜屋敷が吸わないのであれば吸う必要もないし、なにより舌に悪い。料理人にとって、味覚を麻痺する煙草は猛毒であった。シェフの矜持の手前、あれ以来煙草を口にした覚えはない。
 それでも、大人になっても悪さしたい気持ちが生じることはある。『マスター、健康に悪いです』伸びる白い指を機械の声がいさめた。桜屋敷最愛のAI人工知能、カーラである。「一本だけだ」悪さをしたい気持ちなので、案じるカーラの助言を無視する。上機嫌な創造主に、カーラはもう一言いった。『着物に匂いが付きます』『オススメできません』畳みかけた。「わかってる」傾く天秤の不利益を呑み込んだ上で、桜屋敷は自販機のボタンを押す。ガタン、と機械が紙の箱を一つ落とした。煙草の箱である。あの頃と違って、形も小さければ重さも軽い。それに値段も高かった。『仕事に支障が出ます。マスター』カーラがまたしても心配をする。それでも、悪さをしたい衝動に抗えなかった。
 バイクに乗り、学生の頃に使った廃墟のサービスエリアに行く。海沿いにあり、今では使われていない。手入れもされていないので、すっかり施設は錆びついていた。コンクリートは無事でも、鉄筋に赤錆が浮いている。あの頃、自分たちが練習した跡も、しっかり残っていた。
 柵に寄りかかり、カチッとライターを付ける。コンビニで買った安物だ。カモフラージュに花火も買い込んだ。〝Sia la luce〟へ行った際に、どさくさに紛れて置いておこう。どうせあのゴリラに彼らが来ることだ。ゴリラが上手いこと押し付けるに違いない。それと、あの年頃の少年であれば花火が大量にあるだけでワクワクが止まらない。南城と愛抱夢と一緒に、爆竹を買ったことを思い出した。
 久々に吸った煙草は、脳に麻薬を与える。神経がシンと研ぎ澄まされたかと思いきや、集中力が鋭利になる。打ち寄せる波の一つ一つの音を、繊細に耳が拾った。潮の匂いがいつもより強い。創造主の意志を尊重して、カーラはなにもいわない。人工知能は自分を創り出した主の好きなようにさせた。ふぅ、と煙を吹き出せば青紫色の煙がくゆる。──煙草の煙で、ドーナツが作れるとのことを思い出す──結局、言い出した南城も勝負を仕掛けた桜屋敷もできなかった。ドローである。せめてどっちがドーナツに近かったかと食い下がったら、審判の愛抱夢が「どっちもできてないよ」と笑いながらいう。愛抱夢は煙草の煙で遊ぶような吸い方を好まなかった。咥えた煙草のフィルターを、軽く歯で噛む。
「なんだ。お前もいたのかよ」
 聞き慣れた声に視線をやれば、南城である。桜屋敷と同様、バイクに乗ってきた。桜屋敷がカーラ搭載のために特別にあしらえたバイクだとすれば、南城は学生の頃から乗り続けているバイクである。もしかしたら、あのタイプでなければ南城のような体格の持ち主は乗れないのかもしれない。煙草で麻痺した脳で、ぼんやりと桜屋敷は考える。
「うわ。どうしたんだ、珍しい。ずっと吸ってなかっただろ」
 スンと空気を嗅いだ南城の鼻が、目聡く違和感に気付く。桜屋敷の口が咥えている煙草からだ。煙草特有の纏わりつく香りに、顔を顰める。それでも桜屋敷の隣に近付いて、柵に寄りかかった。
「ん」
 小さく口を開けながら、下から桜屋敷の顔を覗き込む。
「あ?」
 桜屋敷は口の中で、煙草のフィルターを歯で噛んだ。おかげでできた軽い溝で、煙草の煙が束ねた紙の中でくすぶる。察しの悪い桜屋敷に、南城は不満を伝えた。
「鈍いヤツだなぁ。煙草を一本くれっていってんだよ」
「それで伝わる馬鹿がいるか。馬鹿ゴリラ。お前、吸わないだろ」
「俺だって吸いたいときはある」
 建前である。桜屋敷が吸っている手前、吸わないと負けた気分になるからだ。張り合う南城に、桜屋敷は自分の袂に手を入れる。たゆんだ袖に保管した煙草の箱を取り出した。
 軽く振って、一本出す。二列に並ぶ煙草を親指で押さえ、空いた一本を立たせた。フィルターが顔を出す。
「一本一万」
「んなわけあるか。守銭奴眼鏡。なんか、昔と変わってないか?」
「値上げだろう。不況と聞くし」
「企業努力とか、中の葉を変えたとか」
「知らん」
『味は変わってないようですが、身体に悪いです』
 電子の海で情報を集められる特性を活かして、カーラが即座に返した。同時に、南城にも注意をする。「そりゃぁな」そういいながら、桜屋敷が浮かせた一本を取る。真新しい煙草のフィルターを口に咥え、暫し。夜の光を反射する白い先端を眺めた。白い煙草の紙は、海が反射した自然や人工の光を反射する。なにかが足りない。桜屋敷は口の中で、煙を貯める。口内に燻る煙を味わうというが、どうも性に合わない。二本の指で煙草を挟み、大きく口を開けた。
 ぷかっ、と大きな煙が桜屋敷の口から出てくる。
「あっ」
 自分の咥えた煙草の先端に視線を落とし続けた南城が気付いた。
「火だ。薫、火ぃ貸してくれ」
「あ? ほら」
「いや、それで着くわけないだろ」
「出すのが面倒くさい」
「このドケチ眼鏡め。どうせコンビニの百円のものだろ」
「たかが百円、されど百円だ。有効活用をするときがあるだろう」
「ほう。どんなときに」
 ニヤリと笑う南城が挑発する。頭の中に無人島の例えが過ったが、不適切だ。必ず南城が揚げ足を取ってくるに違いない。桜屋敷は沈黙を続けたあと、静かに答えた。
 煙草の煙は桜屋敷の口からも鼻からも出ず、ただ先端をジワジワと赤く浸食する。
 灰色の端の先端が、小さく決壊した。
「花火」
 小さく答えた桜屋敷に、南城は固まる。目を丸めるまではいかないものの、虚を突かれたことに変わりはない。両目を閉じたまま答えた桜屋敷の顔を、マジマジと見る。不思議そうに見てくる南城の視線を、桜屋敷は無視した。直視を避け続ける。固く両目の瞼を閉じ続けた。
 煙草は先端から煙を燻り続ける。
「ふぅん」
 南城の興味が逸れた。パチッと桜屋敷が目を開ける。蜂蜜色の瞳が世界を視認する頃には、南城は行動に出ていた。
 煙草の先端へ目を伏せ、焼ける桜屋敷の煙草の先端に真新しい先端を押し付ける。白に灰色が浸食され、灰でできた橋は決壊する。ダムの障壁が決壊したかのように、灰の橋は押し潰された。
 桜屋敷は眉を顰める。南城は咥えた煙草に歯応えを感じない。
「あーあ、やっぱ無駄だぜ。ライターの火がなきゃ、付けらんねぇ」
「戯け。お前が雑だからだ」
「お前が雑だからだろ」
「いーや、お前だ」
「お前だろ」
 ジロリと睨む南城に、ギロリと桜屋敷が睨む。
「お前だ」
 一発触発となる。喧嘩のゴングが用意された。それでも、南城は勝負を仕掛ける気にならない。これではアンフェアのようであり、桜屋敷だけが先に破った。スケートでも、勝負に負けることは嫌だ。ライターの火を出さない桜屋敷の煙草の先端に、もう一度白い先端を押し付けた。
 桜屋敷の煙草の火は中の葉を熱するだけなので、南城の方へ火を移そうとしない。
「もう少し協力しろよ。ちっとも吸えやしねぇ」
「貧乏ゴリラにはお似合いだ」
「勝負で決めるぞ」
「受けて立とう」
 グシャッと南城の手の中で真新しい煙草は潰れた。これで吸える一本はなくなった。「あっ」目を点にする南城を、桜屋敷は鼻で笑う。「自業自得だ」柵に火を押し付けて消そうとした。「待てよ」それを南城は止める。
「元はといえば、そっちが原因だろ。出すだけ出して、肝心のものをあげちゃいない」
「仮にも料理人だろう」
 桜屋敷は消そうとした煙草を起き上がらせる。人差し指と中指で挟み直し、一服する。少量の煙を口の中で味わった。
「料理人の舌が麻痺してどうする。死活問題だろ」
「常習してなきゃ平気だ。それをいったら、お前こそ問題になるだろ。書道家に似合わねぇぞ」
 仕事減るんじゃないのか、と視線で尋ねる。桜屋敷は横目でその視線を受け、軽く煙を吸った。
 ふぅ、と南城に向かって煙を出す。風が桜屋敷が一服した煙を、南城に吹き付けた。
「明日休みにするから問題ない」
「便利なもんだな」
「髪の匂いが取れれば問題ない。あとは、洗濯に出すか」
「そこまでできるのかよ」
「やろうと思えば」
「へぇ。火」
「断る。自分で付けろ」
「ついでに一本」
「チッ、仕方ないヤツだ」
 どさくさに紛れて要求した南城に、桜屋敷は振り向かずライターを投げ付ける。それをキャッチし、南城は新たな一本を要求した。桜屋敷は舌打ちをしつつ、振り向かず箱を出す。南城を見ず、振った箱から一本を浮かせた。それを抓み、南城は自分の口に寄せる。
 茶色いフィルターを口に咥え、ライターの火を付けた。風で消える。大きな手で風よけを作り、身体を小さく丸めた。全身で風から火を守り、もう一度付ける。付いた。ガスの青さを外周に宿し、内側で黄色い炎が燃えた。その先端に、煙草を近付ける。肉の塊を一刀両断したかのような綺麗な切断面に、火が灯った。ガスの青さと違い、外周は赤い。オレンジ色だ。放出した気化ではなく、有機物を燃料としているからだ。「おっとと」二本の指で煙草を挟み、軽く振る。煙草の火が消えた。口に咥え直すが、不完全燃焼の味しかしない。一向に、白いフィルターの中で煙草の葉は燻らなかった。
 学生の頃に嗅いだ香りは、あの一瞬しかしなかった。
「下手くそ」
「うるせぇ」
 横で業前わざまえを評した桜屋敷に、南城はただ一言を返した。