星が一石を投じた
愛の言葉は特に必要ない。どうせ出ないだろうと諦めが先約で胸に居座る。直接「愛している」など口に出したら、世界の終わりだ。明日は隕石が降るに決まっている。「カーラ、愛しているよ」それが一番いいそうなものだ。人に腹を立たせることばかりをいう口が発する『愛』という言葉は、機械相手にしか発さない。桜屋敷の愛機である人工知能にしか明確な形を持たないのだ。
そう、南城は自分の店で寝落ちする桜屋敷を見つめて思う。例年にないこの暑さだ。仕事の疲れも祟って突っ伏したのだろう。カウンターで熟睡する桜屋敷を眺める。『愛情』『愛着』『愛惜』それら全ては『愛』が包括する感情だ。その感情を自分だけが向けているとなると、不公平さを感じる。(といっても、それは昔からか)クリスマスプレゼントで良い物を貰うと、妥協する物を貰った自分に見せつける。成績やテストの結果、球技や陸上の結果など。差を見せつけたり競争に使えたりするものなら、なんでも使って絡んできた。スケートでチームを組んだのは、同じレベルの人間が周りに自分たちしかいなかったことがある。(あの頃は、気にならなかったっていうのに)いつしか顔を合わせれば喧嘩をするようになり、口論の一つでもすれば落ち着くようになる。過去に抱いた不満を蒸し返すかのように『愛』がそれら思い出を掘り返した。
俺一人が、していてもな。そう諦めが胸中に居座る。カランと口を合わせたワインのグラスは、中の嵩を減らさない。桜屋敷は熟睡しており、南城は飲む気が起きない。
頬杖をしてなにも考えず眺めていると、桜屋敷の瞼が動いた。ピクピクと痙攣しており、眉間に皺が寄る。起きそうだ。眼鏡はズレたままである。それを南城は直してやらない。「余計なことをするな」と桜屋敷がキレるからである。
震えた瞼が、ゆっくりと持ち上がる。寝惚けているのか、完全に瞼は開かない。また寝るのか、瞼が閉じる。違う、乾いた眼球を保護するために重く瞬きをした。起こす身体に充分な酸素を取り込むよう、口を開けた。欠伸をする。
ぼんやりとした眼が、南城を捉えた。蜂蜜色の瞳は起床しない。覚醒をしない眼が、視線を逸らさず見つめてくる。そう直情的に見つめてくると、期待せざるを得ない。「もしかしたら、本音を話すんじゃないか」と欲が湧き起こってくる。
南城は小さく身を動かす。
「な、なんだよ」
距離を取ろうとした。代わりに小さく肩が跳ねる。桜屋敷の白い手が、南城に伸びてきた。着物の袖が落ち、白い腕が露わになる。(やっぱり、鍛えているな。コイツ)スケートを見れば一目瞭然である。誰の目から見ても明らかだ。この筋肉で引き締まった腕は着物で輪郭が隠れるからこそ、あの狸顔を装える。
桜屋敷の手が、南城の頬へ伸びる。筋肉に満ちた褐色の胸の下で、心臓が大きく跳ねた。頬にかかる髪を撫でられる。褐色の肌に熱が自然と集まる。白く細長い指が、濃い萌葱色の髪を辿り、頭部の輪郭を触った。南城の口が小さく開いた。桜屋敷は立ち上がらない。その頭部の形を確認するかのように、スルスル撫でる。指先に緑色の毛先を絡ませ、癖毛の感触を楽しむ。蜂蜜色の瞳が、嬉しそうに微笑んだ。これで耐え切れなくなり、南城は口を開く。
「薫」
この一言で、カッと桜屋敷の目が開いた。覚醒した明るいトパーズ色の瞳に(あっ)と南城は後悔する。素直でない皇帝が起き出した。ギロリと鋭く睨みつけ、蜂蜜の柔らかさはいとも簡単に消え去った。サッと南城から手を引く。「チッ、虎次郎か」言葉の端々に忌々しさが含まれる。カチンと南城がキレた。
「あ? ここはホテルじゃねぇんだよ。陰険眼鏡!」
「お前のようなベルアテンダントがいるか!! 阿呆がッ! 精々シェフ止まりだろう」
「当たり前だ。俺は料理人だぞ? でも可愛い女の子の荷物持ちって考えると、悪くはない話だ」
「哀れなゴリラだ。欲に目が眩んで職を捨てるとは、救いようがない」
「仮定の話だッ! 俺は機械をパートナーになんて選ばないからな」
「機械じゃない! カーラだッ!!」
憤る桜屋敷が立ち上がる。見下ろされることが嫌で、南城も立ち上がった。身長差は四センチ。視線の差では南城が勝つが、桜屋敷も負けじと頭突きをする。ガツンと額が衝突した。頬に青筋を浮かべた状態で睨み合いを続ける。
「起きて早々にお前の顔を見るとは、不愉快すぎる!」
「それはこっちの台詞だ!! 人の店で勝手に寝るんじゃねぇよ。狸眼鏡」
「だったら深夜まで店を開けておくな。筋肉ゴリラッ! お前のだらしない経営が原因の一端を担っている」
「小難しい話を聞く気はねーぞ。ロボキチ」
「口を閉じてろ。原始人。元より話すつもりはない。お前の頭で理解できるかが不明だからな」
「いってろ」
急に喧嘩の熱が冷める。急遽、桜屋敷が経営の話をしたためだ。大人の話で子どもみたいに喧嘩をするつもりはない。離れた桜屋敷に合わせて、南城も背中を伸ばす。いつもの減らず口に、突き放す物言いで返した。それを皮切りに、会話が閉じる。無音が続いた。南城は、チラッと桜屋敷の方を見る。
──「疲れているなら、帰って寝た方がいいんじゃないのか」
投げやりながらも、気遣う言葉を放とうとする。
南城が口を開いた途端、桜屋敷が話し出そうと口を開く。その動作を見て、南城は口を閉じた。
桜屋敷が話すまで待つ。桜屋敷は、迷うように視線を床へ泳がせた。白い手が対岸の着物の袖の中へ入る。袂の中に両手を隠した。口を真一文字に閉じる。逡巡が続く中、桜屋敷が口を大きく開い、開けようとした。すぐに閉じて、代わりに言葉を発する。
「明日の夜、時間を空けろ」
要求のみを口にする。相手の予定へ擦り合わせも確認も調整も無しに、だ。「はぁ?」南城の口から不満の聞き返しが出るのも、無理はない。桜屋敷は目を合わさない。迷い続けている。
「どうしてもだ。空けておけ」
口調が強い割に、瞳は自信なさげだ。(珍しいな)そう思いつつ「もし空けなかったら?」とカマを掛けてみる。悪戯半分で聞いてみれば、目が合った。鋭く吊り上がる瞳の中に怒りが潜んでいる。どうやら、相も変わらず向ける感情は変わらないようだ。
「どうもこうもあるかッ! 必ず空けておけ」
「お前、いつもそうだよな」
「あ? んなわけあるか、阿呆らしい」
「俺だって、用事があるんだぞ」
「外せない用事というわけではないだろう。このワイン、風味が飛んでいるな」
「そりゃ、グラスに開けてから時間が経ったからな」
「そのまま放置する馬鹿がいるかッ! 勿体ないことをしやがって」
「ドケチ眼鏡は黙ってろ。ん、確かに飛んでいるな」
「シェフなら注ぐ前に気付け。飲めないことはないが」
「一応高いからな。このワイン」
「この味なら、二千円と少しの値段だ」
「俺の店は、お偉いさん用にも高い酒を用意しているんだよ。モヤシ眼鏡」
「女にモテると勘違いしている哀れなゴリラがいうか。普通。手の施しようがない、どうしようもないゴリラだ」
「モヤシよりマッチョの方がモテるだろ」
「それを好む女にだけだ。ボケナス。哀れすぎて救いようがない」
「店の酒を勝手に飲む無断飲食眼鏡は黙ってろ」
「閉店後も店を開けているそっちが悪い」
あぁいえばこういう。どちらも引かない。グラスに残る手付かずの酒を飲み、口を潤す。目覚めたばかりの口の中は乾いている。桜屋敷の口内は潤いで満たされない。酒のアルコールが、口内に残る僅かな水分を奪った。喉を通っても、身体は蒸発する。酒の熱で脳がやられたわけではない。アルコールが全ての水分を奪う。
「水」
「へいへい」
一言だけ発した桜屋敷の要求に応え、南城は席を立つ。カウンターキッチンの中に入り、水道水をグラスに注いだ。「ほらよ」桜屋敷の近くに置く。水道水で出すなと、普段なら文句を垂れるだろう。今は体内から失われた水分を取り戻すことが先なのか。文句もいわず、飲み干す。「はぁ」肉体が安堵の息を吐く。「もう一杯」流れるようにグラスを渡す桜屋敷に「お前は居酒屋のおっさんか」と南城は突っ込んだ。それでも要求には応えてやる。今度は氷を入れた。冷えた水道水を注いだグラスを渡せば、それも桜屋敷は飲み干す。「店ならちゃんとした水を出せ」ようやく桜屋敷が文句をいった。
グラスに氷だけを残し、立ち上がる。
「帰る」
「そうか。気を付けて帰れよ」
充電で休ませたカーラを起動させ、桜屋敷は店を出る。日が沈んでから、とっくに時間が経っている深夜だ。日中よりは気温が下がっている。人の身には過ごしやすい。海から流れ込む風が、灼熱の熱帯夜となった気候を涼しくしてくれる。ふぁ、と南城は欠伸を小さく出す。もう今夜は遅い。明日の業務に響く。鍵を掛け、使ったものを片付けてから店の電気を消す。防犯も施した店の戸締りを終えてから、南城は自宅に戻った。
寝る前のルーチンを行い、睡眠時間を確保し、毎朝の日課を行う。筋肉は今日も元気だ。店の仕込みをし、料理を出し、ディナーの時間帯の仕込みも行う。(時間が空いたら、少し滑るか)夜の街を滑るのも悪くはない。桜屋敷は今夜来ないはずだ、と考えたところで思い至る。
──「今夜、空けておけ」
そうだ、そのはずだ。一字一句多少は間違えているものの、桜屋敷の用事が少なからずあった。一秒、一分、その用件が終わるまでに掛かる時間は定かではない。ただ、あの口振りからするに。(俺の店でする話ではない、って線が強そうだな)もし南城の店で済むことであれば、あのときに料理のオーダーを出すはずだ。そのことから逆に考えれば、店を閉めても問題はない。
現に、南城の仮説が正しいと出た。
〝S〟で見かける特製のバイクに乗って、桜屋敷は待つ。〝S〟のコスチュームでもない。だからといって、和装でもない。着物のままだと、バイクに跨れないからだ。せめて袴だろう。袴で出掛けることは嫌なのか、珍しく洋装である。
「着物じゃぁ、ないんだな」
仕事帰りの南城は呟く。同じく仕事終わりの桜屋敷は顔を上げる。帰ってきた南城の顔を見るなり、用件をいった。
「出掛けるぞ」
「どこにだ?」
「それは言えん。とにかく、その格好で行くのか?」
「荷物だけは置かせてくれ」
自宅の前で待機している以上、桜屋敷もわかっているはずだ。「で、その後ろに俺が乗ればいいのか?」わかりきったことを尋ねる。「ふざけるなッ!!」洋装の桜屋敷がすかさず憤った。「お前みたいな筋肉ゴリラが乗ると、カーラに余計な負荷が掛かる。黙ってケツを走れ」後ろを付いてこい、ということだ。
「そういう趣味は、ないんだがな」
「どの口がいう」
「黙れ」
生々しい話に付き合う気はない。そういう気分であるのならば、相手をそういう気分にさせる雰囲気を作ってからだ。桜屋敷に毒を吐き、南城は自宅に入った。仕事で使ったものを片付け、念のため動きやすい服に着替える。イタリアでの生活と、元からの生活が絡み合った習慣だ。身に付いた習慣が、溜まった洗濯物から比較的綺麗な服を出す。例外があるとすれば、抱かれたときくらいであろう。
鍵をポケットの中に入れた。慣れ親しんだボードを脇に抱え、バイクへ向かう。
(着物じゃないからって理由で、負けた言い訳をするか?)
気になるところだ。どちらもあり得る。桜屋敷も特製のバイクにボードのカーラを積んでいる以上、ビーフの可能性はあった。バイクのサイドスタンドを上げ、桜屋敷の元まで押して歩く。音で気付いた桜屋敷が、顔を向けた。南城が近付くまで、見ているだけである。
「これで満足か?」
南城も南城で、判断に迷う。眼鏡からコンタクトに変わっている理由だ。単に状況だけを見れば、バイクに眼鏡が危ないからだろう。レンズが割れる恐れがある。その前にヘルメットを被れという話だ。桜屋敷の性格とバイクに搭載しているものを見れば、異なる仮説は生じる。ビーフだ。滑る予定があるため〝S〟と同様視界の安全性と効率性を確保している。桜屋敷は南城の装備を見て、答える。
「あぁ。行くぞ」
問題はない、ということらしい。桜屋敷はバイクのエンジンを掛けた。南城もバイクに跨り、エンジンを掛ける。わざわざ桜屋敷が案内するほどだ。学生の頃に場所の情報を共有していないところだろう。静かな深夜の道路を走る。通る車の気配はない。川を渡り、橋を通り抜けても尚、止まらない。少し遠出をするには、遠すぎる。「おい」反射的に声を掛けようとするが、運転中である。その上、ここからでは聞き取りにくい。南城はガソリンのメーターを見る。正直、これ以上走ると帰りの分が無くなる。強引な手に出た。
バイクを停める音を聞き、桜屋敷も少し走って停まった。後ろを見る。バイクに跨ったまま、南城がブンブンと手を振っている。(なんだ)そのまま様子を見ると、南城がバイクの速度を落として追い付いてくる。桜屋敷と同様、バイクを停めた。
人の肉声が届く距離になる。ハッキリと南城が告げた。
「薫、悪い。給油をさせてくれ」
「は?」
たっぷり間が空いてからの一言、桜屋敷が聞き返した。(真剣な顔でいうことが、それかッ!?)身構えて損した、とばかりに殺意を籠めて睨む。しかしながら、南城は行き先を知らないのだ。用心深くなることも仕方がない。桜屋敷は、走った距離で進んだ位置から考える。多少遠回りになっても、目的地には着く。カーラを搭載したバイクに燃料を補給することは、悪くない。労わるように、バイクのハンドルを撫でる。
「少し遠回りになるぞ」
ここでも桜屋敷は目を合わさない。目を伏せているものの、桜屋敷は一度口に出した約束は守る主義だ。どのように相手へ返るかはともかく、自分の利になるようであれば協力する。カーラを見る目付きから考えれば、要求は呑まれたはずだ。
「頼むぜ」
南城は桜屋敷の提案に乗る。それから少し走って、左に曲がった。真っ直ぐ道なりに進む。人工物である電波塔や貯蔵槽が見えるが、どれも自然にやられている。人の手入れより植物の生命力が勝った。このまま放置すれば、いずれコンクリートを割って植物が芽吹くであろう。人は切り拓いた自然の繁殖に抗いながらも、営みを続ける。ふと目に入った夜空を注視した。今日は星がよく見える。国道が近付いたからか、人類の文明の創造物である光と建物が見えてきた。桜屋敷が前方で指示する。腕で左を示した。桜屋敷の耳には、カーラの『次を左です』のアナウンスが入っているのだろう。ぼんやりと想像した。青の信号で左に曲がると、ガソリンスタンドの看板が見える。高い。ガソリンの高騰は懐を痛めた。
「交通費の請求って、できるか?」
「話による」
意外と桜屋敷が応じた。いつもなら「できるわけないだろう。阿呆が!!」と威嚇するはずである。それがない。妙にいつもらしくない素直さに、南城は落ち着かなくなる。胸の底を擽られて、そわそわした。もっといえば、心臓の底だ。
「ふーん」
そう興味なさそうな返事だけをして、悟られないよう誤魔化す。ガソリンスタンドの機械からレシートを受け取り、ポケットの中に入れた。桜屋敷は電子で決済を済ませてカーラに費用を記録させる。
ガソリンは満タンになった。バイクを走らせようとする。
「なぁ、薫」
「なんだ」
どこに行くつもりなんだ、の言葉を胸の中へ戻す。
「あとどのくらいだ?」
「二〇分足らずで着く」
カーラの補助輪はない。最初から桜屋敷の目的地として頭にあるようだ。それに奇妙な感覚を覚える。羽の羽毛で心臓を擽られるかのような感覚だ。
「あっそう」
冷たい反応で誤魔化しておいた。
またバイクに乗る。政府が切り開いてコンクリートを敷き詰めた地面であり、周りに人工物が立ち並ぶ通りだ。先の細道と違い、自然の脅威に脅かされることはない。まだ人のテリトリーだ。聞こえるとすれば、バイクのエンジン音と風を切る音だ。他にあるとすれば、対向車線ですれ違う自動車くらいだろう。荷物を運ぶ大型トラックの向かい風で、バイクが微かに外側へ傾いた。反射的に、重心がトラックから遠ざかろうとしたのである。小学校を通り過ぎると、自然との共生が目立ってきた。田舎道が目立つ。桜屋敷は止まらず、道なりに走り続ける。(いったい、どこまで向かうんだが)既に店を閉めてから一時間は経っている。明日は〝S〟にも出る予定だ。なるべく早めに就寝したい。
人工物の灯りが少なくなる。怪談話の舞台として打ってつけだ。バイクのヘッドライトだけが、進行方向の道の様子と桜屋敷のバイクを照らす。黙って追走を続けた。(ビーフが始まったら、絶対引き離してやる)これは今だけだと思え、と心の中で念じた。人が寝静まる田舎道を走る。もうなにもない広い土地だけで満天の星空を拝める。恐らく私有地だろうが、なにも植えてない以上そうとしかいえない。桜屋敷はこんな場所では満足しない。バイクを走らせ続ける。小さな山が見えてきた。(まさか、あの場所で天体観測か?)その丘へ続く道を、桜屋敷は通り過ぎる。南城も通り過ぎた。右手側には海ではなく、人が自然と共生する畑が見える。ブルーネットだ。
まだ止まらない。山のような木々と緑に囲まれ、自然の猛威が迫る坂道を登り続ける。(なにかを食べてくればよかったな)と小さく後悔をした。ディナーの営業を始まる前に、余った食材で作った賄い飯しか食べていない。ずっと同じ景色が続き、あとは人間の都合で切り拓いた土地だけだ。それ以外に変わるところは、なにもない。眠気が南城の背中を押した。居眠り運転は危険だ。桜屋敷との車間距離を保つ。変わらない風景に、桜屋敷が細道に入った。南城もそれに倣う。枯れた薄の香りがする。海の匂いが強まった。(潮か)半分休んだ南城の脳が覚醒する。コンクリートで開けた地面に、自販機だ。人はいたに違いない。道なりに進んで、行き止まりに詰まった。これ以上、前方へ進むことはできない。桜屋敷が右に曲がった。
「おいおい」
明らかに道は舗装されていない。予想通り、ガタガタとバイクが揺れた。タイヤやフレームに傷が付く。なのに桜屋敷は運転を続ける。(カーラより大事なことだってか?)そんなことはあり得ない。恐らく、カーラのバイクが傷付かないよう特殊な装甲をしたのであろう。思えば、この道はクレイジーロックの舗装していない獣道と同じ荒さだ。桜屋敷が停まる。南城も続けて停まる。
「おい、かお」
言いかけたところで止まる。空が澄み渡っている。三六〇度見渡しても、満天の星空だ。同時に、切り立った崖も見える。穏やかに傾斜を上げており、崖の下は浅瀬だ。飛び降りれば、打ちどころがよくても重傷を免れない。ほとんどが死ぬだろう。「こんなところでいいか」桜屋敷はその崖へ行かず、ほんの脇道から続く小さな平屋に入った。降りようとすれば降りれるような、目の錯覚が生まれる。波打ち際を遠ざける岩だらけの浅瀬が、高低差の感覚を狂わせる。夜空の星々を映す透明な水面に、手を伸ばせば届きそうだ。ビッシリと蔓延る雑草と木々の逞しさとで、強引に下りても大丈夫だろうとの慢心も生まれる。桜屋敷は浅瀬から深い海を眺め、空を見上げた。南城もカーラの隣に自分のバイクを停めて、桜屋敷の後に続いた。
桜屋敷は振り返らない。南城は様子を見ながら、横に立ってみる。小さく顔を覗き込んでも、桜屋敷は夜空を見上げたままだ。吸い込まれるような闇の中で輝く無数の星々を、視界に収めている。南城は桜屋敷から目を逸らす。顔を上げると、端に見える断崖が気になる。
海に映る星々の数を数えて、南城はいった。
「なぁ、薫」
桜屋敷はなにも答えない。だが、先より雰囲気は変わった。感嘆を漏らす柔らかい空気が、突如棘を孕む。普段通りだ。不安が少し減り、心配事を口に出す。
「地元の人間は、こんなところではしゃがないぞ」
「そんな目的で連れてきたとでも思っているのか」
「全然」
そうきっぱりと答えれば、桜屋敷から不満そうな空気が流れる。とはいえ、文句は出てこない。半分当たりだと、推測できる。
(島民なら常識的なことだからな)
そうした良心や常識が失われていないと知れただけで、収穫である。人間は何時変わるかわからない。身の周りの人間のほか、愛抱夢も昔の面影もなく変わり果てた。〈人間いつしか変わり果てるもの〉と頭で理解しても、感情は匙で掬う程度の寂寥を感じる。桜屋敷は昔から変わらない。相も変わらず真っ直ぐだ。その確認を取れただけで良い。
「お前」
夜空を見上げる南城に、桜屋敷が口に出す。
「今日が何日かわかってないのか」
「はぁ?」
突拍子もない質問に、南城は奇妙な声を上げる。他には誰もいない、秘境のような場所に満天の星空だ。ここまで条件が揃っていれば、愛の告白の一つや二つくらいはあるだろう。桜屋敷は答えない。鋭く眉を吊り上げたまま、南城を睨み続ける。折れて時間を確認した。既に日付を跨いでいる。
「八日だな」
南城が今日の日付を発する。
「まだ七日だろう」
桜屋敷は引き下がらない。ただでは転ばず、食い下がった。
「屁理屈だな」
「七日の二十六時という表現もある」
「まだ二時にはなっていない」
一時にはなりそうだ。頭上に広がる銀河の雫を眺める。バケツいっぱいに貯めたキラキラの星を、一度に放出したみたいだ。ずっと眺めていると、光る星が微かに動いたような気がする。瞬きすれば、位置は変わらない。星の輪郭が微かにぼやける。目の錯覚だ。人の手には及ばない広大な宇宙の姿に、南城は感嘆の息を漏らす。
「すごく綺麗な星空だな」
そう漏らした感想に、桜屋敷が横目で睨む。
「七夕だからだろう」
顔は頭上に広がる銀河へ向けたまま、南城へ打ち返した。
「そうだっけ?」
南城は惚ける。七夕だからといって、特別に星が綺麗に見えるわけでもない。頭上を流れる銀河の川は、この時期だったらいつでも見れる。「そうだ」桜屋敷は断定する。七夕だからこそ、星がよく見えるんだと強く押し出した。そこで思い出す。今日は特別なディナーを店で用意したな、と。七夕に因んだメニューは案外評価が高い。この日にしか出さない限定メニューということで、高評価も付けられる。(それとこれとに、いったいなんの関係が)桜屋敷の腹を探る。七夕に因んで利益を上げるくらいならば、自分の仕事をしているはずだ。わざわざ自分を呼び出すはずがない。
「お前」
また桜屋敷が呼びかける。
「まだ気付かないのか」
同じことをもう一度いった。今度は直接口に出す。「なにがだよ」南城が振り返り尋ねると、桜屋敷は顔を反らす。はぁ、と溜息を吐き、頭を抱えた。態度に「救いようがない」と出ていた。これにカチンと南城がキレる。
「わざわざ呼び出した理由がわからないんだよ。陰険眼鏡。お前だって、明日は早いんだろう?」
「俺は予定をズラして午後から仕事を始めることができる。既にそうした」
「はぁ、書道家は融通が利くもんだな」
飲食業に同じことを求めるな、と。皮肉を籠めて返す。桜屋敷はなにも答えない。
「で?」
夜空を眺める桜屋敷に尋ねる。
「こんなところまで呼び出して、どうしたんだ? お前だったら、一人で行くだろう?」
「なにもお前のために見つけたわけじゃない。仕事の関係で探していたとき、たまたまカーラと見つけた」
「それで俺に紹介する性格じゃないだろ? お前は」
「ここなら邪魔が入らないからな」
表面上だと話は噛み合わない。水面下では互いに探りを入れながら、話を進めている。桜屋敷はポケットに手を入れ、なにかを取り出した。
「受け取れ」
南城に向かって投げつけた。それをキャッチボールの要領で、南城は片手で受け取る。(なんなんだ)疑問に思いつつ、手で掴んだものを確認する。なにか丸い溝が皮越しに浮かんでいる。夜の帳から差し込む恒星の光が無数にあっても、視認するための光が足りない。人類の文化で作り上げた電子の光を用いて、南城は手にしたものを肉眼で確認する。
小さな本革のケースだ。小銭を入れておくには薄すぎる。五百円玉を入れるにしても、サイズが心もとない。無理に入れれば革が傷むだろう。質感を見るに、牛革。金具は真鍮か。小さくも長細いフックは、ベルトループに付けるには短すぎる。
「これで小銭を入れておけってか」
「無くすなよ」
軽口を叩く南城に、桜屋敷は静かに忠告する。(そりゃそうか)なにせ、あの桜屋敷が金を出して物を贈った程度だ。それ相応の値段はするだろう。その額を踏まえれば、迂闊に失くしたなども言えない。
「プレゼント代わりに小銭でも入っているのか?」
「誕生日だからな」
「よくいうぜ。誕生日に小銭をプレゼントするヤツがいるかよ」
いや、桜屋敷ならばあり得ることかもしれない。(この薄さなら、十円か百円ってところか)出てきたものを見て、文句の一つをいってやろう。真鍮のボタンを外す。ボタン式で、外しやすい。両手が塞がり、電子の灯りを消した。携帯端末をポケットに戻し、中身を取り出す。
暗闇の中で光る星空の下で、中身を見ることはできた。
南城は固まる。瞳孔が縮み、銀河で反射した光が僅かに届く中、革のコインケースに入っていた正体を確認する。
丸い。
指で触れてみる。
溝はある。溝の内側に指を滑らせれば、紛うことなく本革だ。薄いプラスティックの板があるわけでもない。この〝丸〟は、なにかを通すための〝丸〟だ。
「お、おい。薫」
震えた声で、南城は桜屋敷に呼びかける。桜屋敷は満天の星空を眺めたまま答えた。
「無くすなよ」
念を押す。それ以上は相手にしようとしない。
「待て。どういう意味だ? どういうつもりで俺に贈った?」
いつになく南城は取り乱す。平常心は声色から消えていた。口に出して直接真意を聞き出そうとする南城に、桜屋敷は顔を戻す。憎たらしい顔も、文句も出してこない。ただ真っ直ぐに見つめてくる。
「それで予約済みだと断っておけ」
「ハッキリと言え。そんな言い方だと、勘違いするぞ」
「俺が予約を取った」
「予約っていうと、客側がキャンセルするだろ。それ」
「俺はキャンセルなどせん。するなら受け取った側だ。ド阿呆。断るなら返せ。金に換える」
「誰が返すかッ!! いや、ゴホン、お前がそういうんなら? 受け取ってやらんこともない」
「チッ! ゴリラが面倒なことをいうな」
「聞こえてるぞ。陰険眼鏡」
「聞こえるようにいった」
「自覚してるほど性質が悪いんだよ。卑怯眼鏡!」
「なんだと!?」
「やるか!?」
「受けて立とう」
ピキピキと青筋を立てる。逆鱗に触れて、激昂してからの頭突きでいがみ合いだ。しかしどうしてか、今日はその先をせずに離れる。
南城が先に身を引いた。「いいのか?」と念を桜屋敷に押す。
「本気だと受け取るぞ。薫、本当にいいのか?」
何度も何度も念を押す。桜屋敷は小さく口を開いただけとなった。南城の不安と懸念に満ちた表情は変わらない。その心配そうな顔付きを見て、桜屋敷は眉尻を上げた。
眉間に皺を寄せる。
「だったら返せ。何度もいわせるな。嫌だったら、俺に返せ。馬鹿ゴリラの年収で買えるような代物じゃないからな」
「じゃぁ、渡すなよ。こんなサイズ、他にピッタリと入るヤツはいないだろ」
「だから金に換えるんだ。ド阿呆」
「俺が返品する前提で話すんじゃねーよ。キモイなぁ!」
「あ!? コロスぞ!! 目の前でうだうだ文句を垂らすからだろうがッ!! このクソゴリラッ!!」
「文句なんていってねぇよ! この腐れ眼鏡!! 突然こんなもん押し付けやがって! 毎回理屈っぽく話すなら、これを寄越した理由も話しやがれ!! 今すぐに!」
「だからいっただろう! 断る理由に使えと!!」
「んな屁理屈より、もっというもんがあるじゃねぇか!!」
ザッパーンッ! と大きく波が浅瀬へ打ち付けた。南城の怒りを表しているかのようである。激昂した南城の激怒を前にして、桜屋敷は狼狽える。まさか、ここまで腹が立つとは思わなかったのだ。カーラの見立てでは、素直に受け取るだろうと踏んでいた。例え喧嘩を仕掛けても、ここまで長引くことはない。
(しまったな)
そう思いつつ、場を誤魔化すように咳払いをする。
「なんだ、その。わかれ」
「まさか、今まで付き合った女にも同じような態度を取ってないだろうな?」
「お前には関係ないことだろう! お前にはッ!! ゴリラなら素直に受け取れ」
「真意がわからないから、こうして聞いているんだろうが」
「ぐっ、いわなくてもわかるだろ」
「そうして誤魔化すと、いつか離れちまうぜ?」
他人事に助言を送れば、キッと桜屋敷が睨んでくる。宇宙の光しか光源がない中でも、耳まで赤いことはなんとなく知れた。目尻に涙が溜まっているように見えるのは、気のせいか。(昔から変わらないな、コイツ)そんなことを思いながら、距離を詰める。人工の光がない中では、肉眼で姿を捉えることは難しい。「虎次郎」箸一本分の距離で、桜屋敷が口を開いた。
「俺がわざわざ、お前に喧嘩を売るためなんかに、ここまで用意すると思うか?」
敢えて問い詰めた対象の真意を聞いてくる。それを聞かれたら、どうしようもない。その答えが分かりきっての、確証がほしくての追及だ。
「んなの、ないに決まってるだろ」
引き下がる。「でもな」違う形で食い下がる。
「今までのことを考えたら、いきなりそうしろって話は違うだろ」
静かに不満を伝えれば、桜屋敷が動いた。強引に南城の頭を掴み、掠め取るように唇の感触を奪う。ハッキリと口に出さず、態度で真相を示す決まったやり取りだ。「お前」といいたげに南城が瞼を伏せる。半眼で桜屋敷にガンを飛ばした。「それで毎回引き下がる女がいると思うなよ」と忠告を出そうとしたとき、桜屋敷が告げた。
「俺は予約したといった。拒否権を持つのは、虎次郎。お前の方だ。嫌だったらいつでも返せ。多少は金になる」
「あのな。そう簡単な話じゃ」
「『予約』は『予約』だろう。どう転んでも俺たちの関係が変わるわけじゃない。好きなように受け取れ」
「こういうのは、お互いの気持ちが大事なんじゃないのか?」
「お前、今日誕生日だろう」
「ん? あぁ、そうだったか」
「俺の一世一代の決心を無駄にするな。落ち着いたらお前も帰れ。俺は先に帰る」
「はぁ!? ビーフする予定じゃなかったのかよ!?」
「こんな気分で滑れるか! クソゴリラッ!! お前とのビーフはまた日を改める。カーラ」
『お疲れ様です。マスター。エンジンの起動を始めます』
「ビーフは別にいいが、勝ったらなにを要求するつもりだったんだ?」
「ほう。俺に負けるつもりだと」
「誰がお前なんかに負けるかよ。腐れ眼鏡! 例えばの話だ」
「それはお前が負けてからいえ」
「誰がお前なんかに負けるかって話だ」
「カーラ、帰るぞ」
『オーケー、マスター』
「って、帰るのかよ」
「当然だ。渡すものは渡したからな」
そう一方的に言い切り、桜屋敷はバイクに跨る。カーラを搭載したバイクは、温まったエンジンでスピードを出した。アレは、行きの時間より速く帰ることができるだろう。スポーツライディングを楽しめるフルカウル型の高性能バイクは伊達ではない。レーサーレプリカの名に相応しい走りだ。クルーザーやオフロード型のバイクとも違う。
高校生の最後から乗り回したバイクを眺める。桜屋敷の自宅に、まだあの頃のバイクはあるのだろうか。いいや、あの守銭奴眼鏡のことだ。きっと既に売り払ったに決まっている。
手の中にあるリングを見る。〝指輪〟だ。金属の作りをしており、触ると熱を吸う。指先に冷たさを感じた。耳に波が小さく押し寄せる音が聞こえる。陸地に近付いた反動へ、海の方へ波だ引いた。
「嫌だったら、捨ててもいいってことか」
ボソッと呟く。こんな断崖の傍らにある海岸まで連れてきたのだ。しかも放置である。この場で海に投げ捨てても、文句はいわれないだろう。このような扱いをした桜屋敷に、相手へ文句をいう資格はない。
グッと手の中で受け取ったものを握り締める。確かに〝丸い溝〟の感触はあった。冷たい金属は熱を吸う。(捨てるのも、まだ早いな)答えは先延ばしにしてもいいだろう。あんな言い方をしたのだ。向こうは何年経とうが答えが出るまで待つつもりなのかもしれない。愛抱夢の件もある。桜屋敷は愛抱夢とビーフするまで、ずっと諦めなかった。
南城も海岸から離れる。玉砕覚悟であっただろう真意は、実物を出されると洒落にはならない。南城も取り扱いに慎重にならねばならない。
バイクに跨る。南城もまた、行きのときより比べ物にならないほどのスピードを出して自宅に戻った。帰りながら考える。
(あれ、ほとんどプロポーズみたいなことだったじゃないか?)
曲がる。人気もいない上、急な飛び出しもない。運よく南城は無事家に着くことができた。ボードをいつもの場所に片付け、寝る準備をする。睡眠が削れ、日課のジョギングをする時間が短くなる。(どこかで取り返さないとな)そう思いながら、開店の準備をする。料理を出し、サービスを提供し、金銭を得る。ランチの時間帯に、客に連れられた桜屋敷がやってきた。接待だろう。客が予約した席に座り、話に相槌を打つ。「お待たせしました」南城が料理を出す。客は、ここの料理が美味しくてね、と口に出す。電話がかかり、席を外した。客の目がないうちに、こっそりと桜屋敷に耳打ちをする。
「まだ捨ててはないぜ」
「当然だろう」
その最初から分かりきったような顔に、腹が立つ。腕を組むかのように胸を張った桜屋敷に、南城はカチンと来た。指輪はただのプロポーズの道具でありながら、予約の機能しか果たさなかったのである。
変わらない日常が続いた。