1. 資料室にて騙された

 桜屋敷薫と南城虎次郎は同期である。学生の頃神道愛之介──その頃は『愛抱夢』と名乗っていた──と出会い、実業の道を唆されて今に至る。神道愛之介の実家は大手の有名な起業家であり、何代にも渡り財を築いてきた。その額は莫大であり、実家を手中に収めるため「武者修行」の名目で、神道愛之介は新事業を手掛けた。菊池忠ことスネークも、愛抱夢の監視と補助のために神道家から派遣される。この会社において『神道愛之介』の名前は飾りだ。ただのパフォーマンスでしかない。この会社で『愛抱夢』だと名乗るときこそ、彼は束縛から解放された。行く行くは実家の事業を継がなければならない。そのためには小うるさい叔母や親族、父親の側近や肥えた老人を黙らさなければいけない。万事手中に収め、手の中で転がすため。今日も愛抱夢は腹の中で黒いことを考えながら、社長業務を行っていた。
 その次に会社の権威を持つのは、桜屋敷と南城である。スケートを通して愛抱夢と出会い、グループの垣根を越えて付き合うようになった。その頃からの付き合いで、愛抱夢の興した事業を手伝う形で、傘下に入った。奇妙なことに、この会社は互いをコードネームで呼び合う。愛抱夢が自らを『愛抱夢』と名乗ったために、生まれた規則だ。「ビジネスの切り替えに使えるか」「お前の場合は顔の入れ替えだろ。狸眼鏡」利害の一致ということで、すんなり受け止めた。この三人の中で一番表と裏の差が激しくないのは、ジョーこと南城虎次郎だけとなる。桜屋敷は自らを〝Cherry blossom〟と名乗り、華麗なる外交術で老舗企業を篭絡していった。南城もまた、負けじとベンチャーや海外の企業とコネクションを作る。
 先に根を上げるのは、南城の方かと思った。
 意外にも、南城は長く愛抱夢の会社に勤め続ける。「たまには女と遊びたい」そう愚痴を零しつつ、外国のビジネス文書と対面し続ける。「遊ぶ金はあるだろ」契約に使う資料を作成しながら、桜屋敷は返す。愛抱夢の企業は右肩上がりだ。それなりの役職と実力ならば、豪遊するだけの金はある。「ナンパしなきゃ意味ねーんだよ」南城が嫌そうに告げた。会社を辞めなければ、休む暇もない。長めのバカンスを終えても、待っているのは仕事だ。果たして自分がやりたかったことはこれなのか?
「なぁ、薫」
 資料室で資料を探す。スネークが編集し、整理したものだ。老舗に搦め手を使う場合は、過去の資料を漁った方がいい。こちらの取引関係も頭に入れた方が得策だ。会社の過去の取引先を探しにきた南城は、一向に棚を漁ろうとしない。桜屋敷に正面を向けたまま、口を開く。
「愛抱夢に辞表を出した」
 カタン、と傾いた資料のファイルが床に落ちた。角が鋭く桜屋敷の爪先を突く。指先に集う無数の神経が、鋭い痛みを桜屋敷の脳に伝えた。そのはずなのに、痛みに対する反応を一向に示さない。脳は過度な負担の処理で麻痺していた。唐突に発した南城の言葉で、痛みが鈍磨する。ファイルの消えた穴を見つめた桜屋敷は、ゆっくりと南城に顔を向けた。
 限界まで見開いた目が、南城を見つめていた。蜂蜜色の瞳が、結晶のように小さな粒となる。
「は?」
 硬直する桜屋敷と違い、南城は態度を硬化しない。居心地の悪そうに首の後ろを掻き、話を続けた。
「愛抱夢の義理立ては充分果たした。俺の仕事はスノウが引き継ぐだろ」
「義理立てってどういう意味だ」
「お前も」
 赤いチョコレート色の瞳が桜屋敷を覗き込む。
「自分の道を見つけろよ」
 まるで自分が愛抱夢に依存しているみたいだ。その物言いに腹が立ち、桜屋敷は南城の腹に拳を入れた。極限まで鍛えて六つに割れた腹筋でさえも、痛みを完全に防ぐことはできない。「うっ」内臓に伝わった衝撃に、南城は軽く呻いた。殴られた箇所を押さえて震える。
「お前に心配されるまでもない」
「あぁ、そうかい。とりあえず、来月から俺はいなくなるからな」
「ふん、清々する」
「ほぉ? 俺がいたら負ける心配もしてたか」
「んなわけあるかッ!! 総合的に、俺の方が会社に利益をもたらした」
「長い目で見れば、俺も会社に多額の利益をもたらしたぜ? 向こうの特許も通ったみたいだしな」
「なに?」
「愛抱夢のライバル会社に行かねぇよ」
 噛みついた桜屋敷に南城は笑う。
「俺は自分の夢を追うぜ」
 完全に愛抱夢と別離することを告げた。