2. 忘れたい喫煙所の失態
桜屋敷に会社を辞めることを告げた翌日。南城虎次郎が月の初めに会社を離れることの話が広まった。社内に存在するファンクラブはこぞってジョーに別れを惜しみ、一秒とて無駄にしないようくっ付くことが多くなった。「ケッ、仕事の邪魔だ」生花部門のシャドウが顔を顰める。生花部門にいるときは化粧を落とし、外に出るときはパンクメイクを施す。準備に時間がかかる男だ。この手を許したのも、愛抱夢である。「ジョーがいなくなるからでしょ」飛び級で例外ということでゲーム部門に配属される最年少のMIYAが、スパッと言い切った。誰でもジョーとの別れを惜しむ。会うたびに、機会があるたびに「来月からは寂しくなる」との言葉を向けていた。
「俺、ちゃんとジョーの仕事を引き継げるかな」心配そうにスノウが呟く。あの愛抱夢が自らスカウトした人材だ。将来が有望であることだろう。「ランガなら大丈夫だって。いざとなりゃ、俺がヘルプに入る!」ドン、とレキが自分の胸を叩いた。大船に乗った気でいろ、というらしい。
それら雑談を遠巻きに見て、桜屋敷ことチェリーは仕事に戻る。ジョーが会社からいなくなるのは仕方がない。新たな人材を入れ、育成するのも手だ。幸い、スノウはジョーの仕事を引き継げるだけの語学はある。寧ろ新陳代謝がいいのではないか? 下手したらブラック企業だとの因縁を付けられる恐れがある。この辺りのバランスを慎重にせねば。人材も引き受ける総務部も担当するスネークに一度話を聞いてみるか。なにせ、会社の重鎮が一人いなくなる事態だ。
仕事をしながらスネークを探すと、喫煙所が目に入る。愛抱夢だ。社長室の外では仮面を付けており、身近な人間以外に素顔を見せない。例え直接スカウトしたスノウであっても、愛抱夢は仮面越しであった。
「愛抱夢」
軽くノックをし、喫煙所に入る。透明なガラスからでは、煙の濃度はわかりにくい。濃いスモークの香りに、桜屋敷は腕で鼻を隠した。眉間に皺も寄る。
「あぁ、チェリー」
気付いた愛抱夢が、申し訳なさそうに笑う。その瞳は、謝罪より可笑しさで感情が噴き出していた。(いつものことだ)愛抱夢はいつも、このように人をおちょくる。そう確信を強め、仕事の話をする。
「来月からのことだが」
「あぁ、わかってる。ジョーが消えた分はどうにかするさ」
意外にも軽い。あんなに苦楽を共にした身だというのに、こうもあっさり切り替えられるのか。唖然としつつ、話を続ける。
「具体的には?」
「吸わないのかい?」
「遠慮しておこう。どうも印象が悪くなる」
「喫煙所に入った時点で、どうにもならないだろ」
クッと小馬鹿にしたように赤い瞳が笑う。喉の奥で声を慣らした。「それはそうだがな」桜屋敷も負けじと意地を張る。
「髪を洗い、スーツを着替えれば問題ない」
「替えのスーツがあるのかい? うちにシャワー室はないよ」
「例えだ。生憎、今日は外回りの予定はない」
「ふぅん」
「Zoom会議で事足りる」
「流石チェリーだ。デジタル方面に強いね」
「Zoomくらい誰でも扱える」
当然だろう、と胸を張る。流石に、桜屋敷ほど知識に長けたものはいないとの否定はしなかった。煙草を吸いながら、愛抱夢はジッとチェリーを見る。チェリーは喫煙所から出ようとしない。
煙草を咥えたまま、重いニコチンを口の中で転がす。タールが舌だけでなく、肺にも重く纏わりつく。気泡の穴を塞ぎ、味覚を鈍らせる。その癖、頭だけは妙に冴えてきた。中毒性がある。雑味のない味に、二人の姿を重ねる。香りは高いが、それだけだ。フッと口の中に溜め込んだ煙を吐き出す。
「君は辞めないのかい?」
「は?」
「辞表。君も、やりたいことがあったはずだろ。チェリー、君が育ててくれた人材も立派になっている」
吸った煙草を灰皿のスタンドに押し付け、新しい煙草を取り出す。今度は雑味もない上、味も豊かだ。愛抱夢は香りより、味を楽しめるかを取った。口に咥える。
「君がいなくなっても、充分回していけるさ。いや、僕が回してみせるといった方が正しいか」
カチッとライターの火が付く。慣れた手付きで煙草の先端に火が移り、中の葉を燻らせる。ぎゅうぎゅうに詰め込んだ葉に酸素の通り道はなく、微かな隙間から二酸化炭素を送らせるしかない。その空気中に含んだ微かな水分と酸素が、先端で燻る火に燃料を送った。
チリチリと赤くなる。桜屋敷は愛抱夢の放った言葉の意味がわからない。
(は?)
ゆっくり解読していった。
(クビ? 俺のクビを宣言していると?)
理解が追い付かない。愛抱夢の発言を分析すると「チェリーがいなくても会社は回る」「君も辞めればいい」「特に支障は出ない」悪意を持って解釈すると「君はもう必要ない」だ。パリン、と桜屋敷の中でなにかが割れる。いつからすれ違いが起きていたのだろうか? あのとき永遠だと思った時間は、いつのまにか愛抱夢の中で終わっていた。南城は気付いていたと? だから俺に「自分の道を探せ」などとふざけたことをいったのか。
呆然とする桜屋敷の手が、指に力を籠める。握り締めた手に、爪を立てた。平然を装うとする。
「俺を使えるだけ使って、捨てる気か」
なんと執着心溢れた女々しい女の別れ際の言葉か。そう自覚するが、それ以外に当て嵌まる言葉がない。それ以外に、愛抱夢へ気持ちをぶつける言葉が思い浮かばなかった。桜屋敷の指から力が抜ける。弱々しく視線が下に向いた。
「そうともいう。君はもう、お役目御免だ」
冷酷に愛抱夢は切り捨てる。(そうか)だからこそ、虎次郎は簡単に会社を離れることができた。もしかしたら、愛抱夢は最初から、このつもりだったのかもしれない。俺たちはあのとき、自分たちの夢を語った。愛抱夢は俺たちの力を借りるために今まで黙っていたのであり、もしかしたら、初めから俺や虎次郎の夢を応援するつもりでいたのかもしれない。
スッと目を開ける。閉じたときまで浮かんだ躊躇いや不安の芽は、綺麗に焼かれていた。
「そうか」
今は燃えカスだけであり、既に土壌の栄養となっている。桜屋敷は愛抱夢の捻くれた言葉を、正面から受け止めた。
「なら、わかった。明日辞表を出すことにしよう。本当に、いいんだな?」
「引き止めてほしいのかい?」
「愛抱夢は最初から、俺や虎次郎を応援する気でいた。それに異存はない」
断言する桜屋敷から目を離し、正面の壁を見据える。透明な強化ガラスだ。T字の通路から、人が喫煙所に向かう姿はない。フーッと煙草の離れた口で、息を吐く。(どこか誤解が起きたな)本能で感付くが、放置の方が話が進むか。どのように対応するか迷う。これで目障りな人間が消えたといっても過言ではない。ようやく、手中で転がせる人材と大好きなスノウと過ごせる環境が整った。
愛抱夢は返事を考え、暫し熟考した後、こう答える。
「ま、頑張ってくれ」
ぞんざいに応援の言葉を投げ捨てた。このゴミ箱にゴミを捨てるような物言いでも、充分だったらしい。「いつか相まみえてみせる」そう宣戦を残し、桜屋敷は喫煙所を去った。
一つに結んだピンク色の髪が、風に棚引く。あれも精々、来月までに見納めとなる。清々した。いつまでも二人がいては、あの頃の気分を引っ張ることとなる。愛抱夢は自らケジメを付けた。過去との繋がりを絶ち、ようやくここから踏み出せる。昔馴染みの顔とは、早いこと距離を取った方がいい。
望む断絶の長さを、煙で細長く示す。小さく口を窄め、薫る煙を切れさせないようにした。喫煙所は、社内の様子を隠れて観ることに絶好の場所だ。まだバレてはいない。桜屋敷と南城が抜けた穴は大きい。しかし、いずれ訪れる穴だ。その備えは事業を興したときから既に手を打ってある。
スーッと煙草を吸う。桜屋敷が辞表を出した翌日、第二の衝撃波が会社を襲った。
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