3. 甘すぎるエレベーター

 元々、料理は趣味だった。イタリア料理で勝負することを決めて以来、薫を捕まえて試食をさせることもあった。行く行くは金を貯めて、本場で料理の修業をするつもりである。「いいな、それ! 俺も手伝うぜ」愛抱夢の夢に乗った桜屋敷が、無邪気に笑って頷き、肯定する。南城は固まった。(お前のやりたいこと、そうじゃないだろ)出かかった言葉は「サンキュ。インターンやバイトもあるよ」の愛抱夢の言葉で遮られる。桜屋敷が南城の首を腕で引き寄せたからだ。
 ──「じゃぁ、金が出るってことだよな? ちょうどいい! 俺も虎次郎も金に困っててさ。バイトついでに手伝ってやるぜ」
 最初は『バイト』からだった。軽いものだろう。南城はそのときのノリを見て、仕方ないなと思った。「勝手に決めんじゃねぇよ」首を引き寄せた桜屋敷を、下から引き剥がす。「あ?」桜屋敷が噛み付く。「金に困ってるのは本当だろ!」人の気を知らないで喧嘩を売る。「だからって決めるな!!」南城も苛立ち、噛み返す。とはいえ、友人ダチの手伝いをすることに異論はない。「ま、俺も手伝ってやるよ」そう返す南城に「ほら。やっぱり手伝うじゃねぇか」と桜屋敷は鋭く突き返す。睨む桜屋敷に「お前にいわれるのは腹が立つんだよ!!」と南城は怒鳴り返した。そこから、いつもの喧嘩である。それを愛抱夢は笑って見ていた。
 その『手伝い』からいつのまにか『会社の一員』とされ、それなりの役職を与えられた。社内では『重鎮』とも呼ばれているらしい。まだできて数年も経たない会社だというのに、重鎮とはどういうことか。新人が噂する評価に、南城は疑問を抱く。心は波を立てず、空を流れる雲のように穏やかだ。逍遥自在、南城を四字熟語で表すならばそれである。
 ようやく自分抜きで会社が安定すると見て、南城は一抜けた。
 必要な人材は充分に育てた。散々使えず貯めた金は、これからのことに使わせてもらおう。まずはイタリアの地で修業するための準備をしなければいけない。言語に関しては、愛抱夢の金で習得した。イタリアに仕事を探しに行ったのも、このためである。パスポートの申請も、時間がかかる。残り一ヶ月で仕事の引継ぎや引継ぎの顔合わせをしながら、準備をしなければならない。
 辞表を出してから三日目、続けて桜屋敷も辞表を出したことを知った。
 流石の南城も困惑する。
「は?」
 チェリーこと〝Cherry blossom〟のファンや親衛隊は騒ぎ立て、こぞって桜屋敷の移転先を探ろうとする。憶測が憶測を呼んだ。「彼は独立をするらしい。彼の未来を祝福しようじゃないか」愛抱夢の言い分に、桜屋敷は外向けの笑顔で「ありがとうございます」と答える。パフォーマンスだ。しかしながら、桜屋敷の顔色から見るに。予め打ち合わせして決めた演技のように見える。
 そこはいい。
 問題は、なぜ立て続けに桜屋敷も辞表を出したかだ。(愛抱夢が噛んでいるのか?)愛抱夢が急き立てれば、桜屋敷も良いように捉える。だからといって、なぜ急に? 都合よく纏めて引き払おうとしたのか。それを薫のヤツが納得したと? 実際に問いたださなければ、回答は見えない。
「愛抱夢、今時間はあるか」「今は忙しい。後にしてくれ」「お前、自分の会社のことをどう考えているんだ?」「心配するな。ちゃんと考えてある」強引に話題を切り出しても、のらりくらりだ。こう返すときは、予め計画が頭の中で展開しているときだ。こういうときは、特に心配する必要はない。ならば、あとは桜屋敷だけだ。
 桜屋敷を捕まえようとするが、中々捕まらない。「チェリーはいるか?」「チェリーならさっき出て行ったよ」「ここはこうで。あぁ、チェリーをどこかで見かけたか?」「チェリー? 見てないけど」「レキとスノウから聞いたよ。チェリーなら今帰ったとこだって」「おっ。ジョー、そっちは逆方向じゃ」閉じかけるエレベーターの扉に手を入れ、強引に開ける。中にいた人物が、驚いて硬直した。目が点になる。南城の腕が中に入って扉が開くボタンを押すと、硬直が溶ける。
「エレベーターが壊れる」
 桜屋敷は不満をぶつける。乗り込んだ南城は、何食わぬ顔で答えた。
「平気だろ」
「精密機械だ。誤作動が起こる」
「人間の握力で壊れるかよ」
「センサーに異常が生じるだろうがッ! 筋肉ゴリラ」
「まだ誤差の範囲だろ!! 満員電車とかどうなる」
「あれは人力も入っている」
「ぎゅうぎゅうにすし詰めすることがか?」
「黙ってろ」
「話しかけたのはそっちだろ」
 急に会話を切ろうとするので、返した刃で繋ぎ止める。ギロリと桜屋敷が南城を睨んだ。
「入ってきたのはそっちだ」
 強引に密室に乗り込んだのは、南城である。狭い鉄の箱に桜屋敷と南城しかいず、邪魔が入ることはない。次の階まで時間がある。掴んだ短い時間で、桜屋敷に真相を確かめる。
「辞めるって本当か?」
「あぁ」
 深刻な声色に対して、返事が軽い。南城が話しかけるまでもなく、桜屋敷は既に決意を固めていた。この頑丈さは誰の手にも負えない。折ることなど、到底不可能だ。愛抱夢に強制されてではなく、自らの意志でだろうか? 微かに否定できない根拠がある。
「愛抱夢に言われて、じゃないだろうな?」
「当たり前だ。そもそも」
 腕を組み、胸を張った桜屋敷が、閉じた瞼を薄く開ける。横目で南城を見た。
「愛抱夢がクビ宣言なんてするか?」
 俺たちに、と言外に含んでいそうである。
「クビは飛ばした」
 反論の根拠を告げる。
「それは大失敗をしでかしたからだ。尻拭いをしたこっちの身になれ」
「暫く大変だったもんな。愛抱夢も出てきて、謝罪をしたっけ。あの立ち回り、凄かったよな」
「あぁ。おかげで暴落は防げたが、二度とやりたくない」
「やっぱ、組織勤めは窮屈だっただろ」
 南城の指摘に、桜屋敷は黙り込む。──正直、会社に歯車として属する形の働き方は、不利ばかりを被った。新参者の育成はまだいい。初心者は失敗をすることが常だ。だが、恩を売る形で取引のあった会社から「経験がある」とのことで人材が入ってくることは、好ましくない。大抵が外れであるからだ。問題を呼び込む。それを一発で引いてしまったものだから、二度と天下り方式で人材を引き入れる方法は取らなくなった。コネクションは自力で引き寄せるものである。今は、手続きを踏んで人材を探す方針を主要にしている──それらが起こす負の片付けを、桜屋敷は少しばかり担っていた。愛抱夢の興した事業の重鎮という肩書きもある。スネークに押し付けては、自分が形無しだと思った。
 正直、それらが負担となった面もある。
 反論できず、静かに顔を背ける。南城も、桜屋敷が反論できないことをわかっているのか。それ以上追及しようとしない。
 互いに顔を合わせないまま、同じ場所に居合わせる。言葉だけを交わした。
「このあとの予定はあるのか?」
「しばらく考える。運用で金も増えたからな。長めの休暇とするか」
「相変わらずがめついな、お前」
「入った途端に全額使うよりかはマシだ」
「そんな一気に使わねーよ。気が付いたら、なくなってる」
「一緒だろ」
 桜屋敷の反論に、南城は返さない。今度は正論だからだ。加えて、ここ数年は使う機会などなかった。反論できるほどの積み重ねを、直近行えていない。南城は話を逸らした。
「旅行でもするか?」
「先にスケートをしたい。しばらく、滑れてもないからな」
「あぁ、時間もなかったからな」
 役職が上がれば上がるほど、会社に拘束される時間も増える。欧州では休暇を取ることも仕事のうちに入るが、責任も重くなる。他人のミスをカバーし、集団で利益を上げることをしとするならば。全て自分の采配と責任の範疇に抑えられる自営業の方が楽だ。フリーランスでもいい。とにかく、スケートをする時間もほしかった。(愛抱夢は、いったいいつ時間を取っているのだろうか)桜屋敷は眉間を押さえる。寄った皺を指で解した。
「コケたら笑ってやる」
「抜かせ。お前がコケたら鼻で笑ってやる」
「本当、性格悪いな。お前」
「ゴリラはゴリラらしくヘルメット付けとけ」
「バナナで実験するゴリラじゃねーんだぞ。あぁ、そうだ。これからのことなんだが」
 それぞれ違う人生を歩むことになる。別の道を行くだろう。今までのように連絡を気軽にすることもできなくなる。
 南城はスマートフォンを取り出す。会社で支給されたものだ。ビジネス用となる。桜屋敷は横目でスマートフォンの機種を確認し、壁から離れた。手癖でメッセージのチェックを行う南城は気付かない。
「連絡取れない時間帯とか出るだろ? そのために」
 出られない時間は予め決めておいた方がいいんじゃないかと。考えを口に出す前に引っ張り出される。緩く締めたネクタイを掴まれた。南城の体格に合うスーツは少ない。高いオーダーメイドでも、筋肉で窮屈になる。ボタンの一番上は自然と外してしまう。桜屋敷の手がボタンを外す気配はない。
 ネクタイの誘導で南城の首を屈ませ、唇を重ねる。その先の発言を桜屋敷は封じた。
「その話は後にしろ」
 今はそういう気分ではないのらしい。キスを一つだけして、パッと手を放す。ポカンと目を丸くする南城は、桜屋敷にキスをされた体勢のままだ。着信が鳴る。桜屋敷のスマートフォンからだ。愛抱夢の会社から支給された、ビジネス用である。「はい、もしもし。あぁ、ご無沙汰しております」「えぇ、新しく仕事を始めようかと思いまして」既に桜屋敷は仕事用の顔に戻っていた。横目で南城の様子を見るときだけは、素に戻る。
 視線でわからないと見たのか。桜屋敷は空気で口の形を作った。
 ──ほ、か、に、よ、う、け、ん、は、な、い、の、か、ぼ、け、な、す──。
 律儀に罵倒を付けた。ハッと気付いた南城が即座に反応してこないことを見て、桜屋敷はボタンを押す。チンとエレベーターは音を鳴らしていた。扉の『開』を押し、時間を延長する。楽しそうに電話の向こうと話をしながら、桜屋敷はエレベーターを降りた。
 チンッと音が鳴る。エレベーターが新たな指示を得て、階下に降り始めた。小さな鉄の箱に、南城だけを一人残す。桜屋敷がキスをしてきた。この事実に、顔に血が集まる。
 簡単に静まりそうにない。暑さで誤魔化しつつも、平然を装う。暫し、南城の混乱は続いた。