スリスリしてくるジョー
南城虎次郎は
トラではある、とは言い過ぎか。桜屋敷は思い直す。南城の耳に動物の虎の耳が生えているわけでもないし、まして尻尾が生えているわけでもない。人間だ。昔と違って些細なことで衝突してくる男は、自分の肩へ凭れかかろうとした。特に邪魔ではないので、好きにさせる。もし仕事中や考え事、カーラのメンテナンス時であれば止めていた。「おい」と突き放すにはどうも棘が強すぎる。口から出た言葉は南城の行動を止める。剣呑と喧嘩をする気分でもない。好きにさせたら、スリスリと顔を肩に擦り付けてくる。
「ネコか」
そもそも南城は
ネコだ。自分は
タチなので当然である。(馬鹿か)己の失言に桜屋敷が後悔する。眉間に寄せる皺に、別の意味が生まれた。
「マーキングだよ。別にいいだろ」
断定から投げやりに南城が返してくる。反論だ。桜屋敷の喉が詰まる。南城は負けを認めたも当然だ。ここで無駄に攻撃する必要もない。眼鏡のレンズに光を反射させたまま、桜屋敷は顔を反らした。
下心スケスケのモブ
桜屋敷は南城と比べて、中性的だ。肩や二の腕を始め、全身に付いた筋肉は南城に遅れを取るものの、XY遺伝子だからこそ付いた量だ。筋肉が付く極限まで鍛え、今も落とすことはない。男だとわかる筋肉質な身体は、ゆったりとした着物で覆い隠されていた。なので桜屋敷を腕力の弱い存在として、性的関係に持ち込もうとする手合いもいる。イタリアンレストラン〝Sia la luce〟のカウンターで行われる会話もそうだ。いつかの企業の社長と違い、新顔だ。「ここは美味しいと聞いて」社長同士の横の繋がりだろう。AI書道家桜屋敷薫をこの店に連れていけば、商談が上手く行くと聞いたか。「えぇ、存じております」ニコリと人当たりの良い笑みで桜屋敷は合いの手を打つ。(狸眼鏡め)そう毒づきながらも、南城は「お待たせしました」と外向きの顔で食事を出す。厨房で仕事をしつつホールでも仕事を行えば、カウンターの商談は耳に入る。桜屋敷は好意的な微笑みで的確に相槌を打ち、自分の有利な方へ話を進めた。(騙されてんぞ。新参)そう心の中で呆れつつ、空いたテーブルの皿を下げる。ついでにササッと拭いた。
「ところで、今度もし良かったら」
見え透いた下心である。カウンターの横を通って厨房に戻りながら、南城は横目で見やる。
「申し訳ありません。このところ、他の仕事で立て込んでおりまして」
桜屋敷は申し訳なさそうに眉を下げた。嘘も方便である。相手が傷付かないよう、体裁よく断っただけである。(そりゃそうだろ)ツン、と南城はそっけない顔をして厨房に戻る。
キッチンやホールで仕事をし、会計も行う。どうやら、新顔の社長は桜屋敷に振られたようだ。上機嫌の桜屋敷と違い、社長の方は落胆を隠しきれていない。「では、またもご贔屓に」酷いヤツである。南城の目に、油揚げをたかろうとする狡猾な狐の顔に見えた。
「で、抱いたり抱かれたりはしていねぇだろうな?」
「くだらん。一銭にもならん。ほう、俺の心配でもしたか?」
「誰がするか!」
ヒクヒクと口角が痙攣するほか、頬や米神に青筋が立つ。肩を怒らせる南城に、桜屋敷は勝ち誇った顔をした。
結婚か? いいぞ。
ある日、桜屋敷は南城に尋ねた。
「虎次郎、頼みがあるんだが」
名前で呼ぶとは珍しい。こういうときは大抵、真面目な話というものだ。振り向き、南城は真面目な答えで尋ねる。
「なんだ? 結婚か? いいぞ」
「あ?」
すぐに返るは不機嫌な声である。どうやら違ったらしい。一気に顔を歪めた桜屋敷に釣られ、南城は顔を顰める。
「は? そういう話じゃないのか?」
「当たり前だッ! ボケナス
!! はぁ、俺が頼みたいことはだな」
罵倒から溜息に続き、用件を話し出す。ツラツラと説明が長い。興味のないことなので、南城の耳に入っては外へ流れ出す。「おい。聞いているか。ゴリラ」学校で席が隣同士だった場合、当てられそうな自分へ桜屋敷はよくそういった。気付いたら、教師に指名されていたことはザラである。
「ん? 聞いてなかった」
「お前な」
涼しい顔で事実を話せば、桜屋敷はキレる。そのあと、すぐに感情を鎮静化させた。徒労が怒りを塗り潰し、溜息を肺から吐き出させる。
「はぁ、お前に頼もうとした俺が馬鹿だった」
「どうせカーラにでもできることだろ」
「そうだな」
肯定とは、ある意味腹の立つことである。互いにツンとしたまま、話が終わった。
プロポーズはこういう流れで
特に結婚願望はないものの、〈もしも〉を考えたら、考えは尽きないものである。
ナンパした女から押し付けられた結婚雑誌を広げ、今時はこんなものかと思う。たまたま結婚雑誌を買ったところで婚約破棄を告げられ、友達と自棄になって遊び尽くそうとしたところで、南城に声を掛けられた。「ラッキーって思った」ナンパの成功で一緒に歩いていたところで、女が発した言葉が蘇る。南城は顔がいい。オマケに褐色の肌で魅力的なまでに筋肉を鍛え抜いている。男の理想像だ。(ラッキー、ねぇ)婚約破棄で自棄になって一日中遊び尽くそうとしたところで、顔の良い男に声を掛けられる。これを「ラッキー」といっていいものか。南城は理解に苦しむ。
「なぁ、薫」
思い付いたら行動が早い。ガバッと畳から起き上がり、桜屋敷に話しかける。
「今、メンテナンス中だ。後にしろ」
どうやら話を聞く気はあるらしい。薄い液晶画面に並ぶ英語や数字は、桜屋敷にしかわからない。人工知能の思考回路や計算に不備がないかのチェックの他に、ボードやバイクの整備もある。後者はわかるが、前者は理解に苦しむ。南城は桜屋敷の言い分を無視し、勝手に隣に座った。
「俺へのプロポーズだが」
「はっ? なんだって?」
「こういう感じにしてくれ。誤ってこういうのはやめろよ」
「待て。それ、お前が買ったのか?」
「それと、うん。こういう感じもいいな。頼んだぞ」
「なにがだ」
「俺へのプロポーズだよ」
「意味がサッパリわからん」
ギュッと眉間に皺を何重にも重ね、眉を吊り上げる。顔に困惑が表れた。南城は涼しい顔で、結婚雑誌を閉じる。
「式は身内でやるくらいが、いいかな」
「急に式の話に飛ぶか? 俺は派手なのがいい」
「あの趣味の悪い? お前が成人式のときに着ていた袴みたいに?」
「趣味が悪いのはそっちだろ。馬鹿ゴリラ」
「じゃぁ、せめてプロポーズは自然な感じにしろ」
桜屋敷の罵倒に食いつかず、条件を出す。南城の自然な話の戻し方に、一瞬桜屋敷の思考が止まった。脳が処理に追いつき、視線の移動が話を整理する。流れを理解した途端、黄金色の瞳が一気に縮んだ。
「は
!?」
「なんだよ。もしかしてプロポーズにロマンでもあったか?」
「意味がわからん。お前のせいで問題点がどこか行った」
「へー、そう」
両目の目頭を親指と人差し指で押さえ、桜屋敷は俯く。頭痛を止めようとするが、南城の話に理解が追い付かない。これはスルーしていい案件か? 次のときに喧嘩に使ってくる材料ではないか? ならば今、ここで叩き潰しておきたい。そのためには今の話を理解する必要があるが、なぜここで、南城がそういう話を持ち出してきたのか、全く意味がわからん。
桜屋敷は理解に苦しむ。
南城は涼しい顔をして、興味なさそうに頬杖を衝いた。互いに顔を合わせない。最適解は出なかった。
持ち物には名前を書く
持ち物の紛失には、名前を書くことが一番である。白檀と龍脳の匂いに、汗と吐精の匂いが混ざる。ついでに準備に使った潤滑剤の香りも混ざった。(換気、しねぇと)先に目覚めた南城が、ぼんやりと考える。徹夜続きもあったのか、桜屋敷は南城の身体に重く圧し掛かったまま寝ている。手を伸ばせば、書机に届きそうである。だが現実は違う。軽く身体を起こさなければ届かないし、桜屋敷が落ちる。視界に入ったものに視線をやると、筆があった。小ぶりであり、薄く墨が滲んでいる。真新しいものではないが、仕事中にまだ使われていないものだろう。仕事の行き詰まりで、頭のネジが飛んだのか。桜屋敷は小ぶりの筆を、南城の身体に這わせた。胸の他に、背筋や首筋、腰や脳──凡そ人の敏感といえる場所に、筆先を滑らせる。そのたびに南城の身体は大きく跳ねたものだが、いうまでもない。
いわゆる
肉体だけの関係である。南城に抱かれる趣味はないし、あっても抱く方だ。抱かれる側として相手を求める場合、面倒な手合いに引っ掛かる可能性もある。ならばズルズル、桜屋敷と関係を持った方がマシだ。桜屋敷も女と付き合う。別れる手間を惜しんで、どうせ肉体を求めるならば手頃なものでいいと妥協を付ける。南城は応じることも多い。書道家として成功した身、口の堅い女や義理堅い女を見つけること、まして一時的な捌け口で探すことも骨が折れる。苦労との見返りが少ない。ならば南城の方がマシだ、という消極的理由である。とはいえ、南城は桜屋敷と同じ利益で動いているか? といわれればそうではない。
自分の身体を撫でた筆先を、南城は平たい指でなぞる。あのときは桜屋敷の身体の一部だと感じたが、今となっては桜屋敷の
仕事道具だ。それほど感慨深くも感じない。
(文字が書けるのか)
触れた指先に墨が付いた気配はない。ならばいいかと思い、桜屋敷の首筋に筆を滑らせる。書道の筆を握ったことは、小学生のとき以来だ。入選に掠るか掠らないかの位置にいる自分と比べ、桜屋敷は大層な賞を取っていた。達筆、という評価らしい。南城には書道の評価がわからぬ。
墨を汗で吸い取られた筆が、桜屋敷の首に文字を描く。
くすぐったい感触で、桜屋敷が起きた。
「ん」
小さく身じろぎをして、南城と目が合う。その手に仕事道具の筆があることを見ると、微睡んだ瞳に鋭さが戻った。怒りを含ませて睨みつける。
「なにをしている」
「自分の物には、名前を書いておかないとな」
怒気を滲ませる桜屋敷に、南城は涼しい顔をして答える。目を瞑ったまま、もう一度筆を滑らせた。下手くそな字で『南城虎次郎』と書いているようにも思える。
「ふん」
桜屋敷は鼻を鳴らすだけに留めた。どうせ字の上手さは自分の方が上である。虎次郎がいくら逆立ちしようと勝てない。圧勝の勝負をふっかける南城を、桜屋敷は相手にしないことにした。
仮眠に戻る。南城は、まだ桜屋敷は退かないものかと思った。
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