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適当な商談だった。誤解しないでほしいが、〈どうでもいい〉という内容での「適当な商談」ではない。依頼人の要求と示された額、依頼人の意欲と書を納品することで起こる効果の狙いを含む依頼人の望みなど、それらを含めて〈承諾するには妥当な〉商談であったということだ。額も額なだけ、断ることは得策といえない。「では、そういうことで」桜屋敷は対外的な笑みを浮かべて、熱い握手を交わす。依頼人も、固く握手をし返した。さて、わざわざ相手の陣地まで赴いたこともある。(古臭い会社だ)今時リモートを使えんとは、と愚痴を零しかける。デスクトップの奥行きが深い旧型のパソコンを使うほどだ。きっとその辺りの知識が乏しいのだろう。自分へ要求されたことも、【AI書道家】としてではなく、ただの【書道家】と見ての依頼だ。恐らく、英語やカタカナ言葉はただの能書きとして捉えたのだろう。
(だが、ここから評判を覆せば、俺の評価も鰻登りとなる)
会社の乾坤一擲《けんこんいってき》に乗るのも、悪い話ではない。話を聞く限りでは、上手く行けば多額の金も転がり込む。エントランスを出る。受付嬢が「本日はありがとうございました」とわざわざ見送りをして礼をいう。こういうところも、古臭い体質だ。「いえ。こちらことありがとうございました、と神里社長にお伝えください」穏やかな笑みを作り、丁寧に返す。礼には礼をだ。「はい、わかりました」と受付嬢が答えたことを聞いて、桜屋敷はゆっくりと会社から離れた。移動距離だけでも、随分と時間を食わされたものである。『マスター。本日の十一時にリモートでの会議が三件、入っています』優秀な秘書でもある人工知能で愛機のカーラが告げた。「あぁ、ありがとう。カーラ」徒歩で移動しながら、桜屋敷は礼をいう。後悔があるとすれば、ボードを持参しなかったことだ。いや、商談先へわざわざスケートボードを持ち込む馬鹿はいようか? すぐに宮古島での出来事を思い出す。いた。自分だ。桜屋敷は依頼人が経営する高級旅館で、ボードのカーラを持ち込んだ。だからといって、今回とは話が違う。徒歩圏であれば、すぐに帰れると思った。桜屋敷は、己の迂闊な判断を悔やんだ。
指先で薄紫色のバングルを撫でる。ふと見知った店を見つけて、足を止めた。
自分への労りにと、店の中に入る。来客のベルが鳴った。「まだ準備中、げっ!!」厨房の細長い小窓から顔を出した南城が、嫌な声を出した。それに構わず、桜屋敷はカウンター席に座る。
「なにか出せ。喉が渇いた」
毎度の厚かましさを出した。
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