9:00(?)

 まだ太陽が南の空高くに昇ってないというのに、桜屋敷が突然やってきた。今朝の肌寒さといい、本日は地球最後の日かもしれない。南城は危機感を抱く。朝が弱い桜屋敷が、まだ日も昇って間もない頃にやってくることは、なにやら良くない予兆を感じた。「ようやく準備を始めたってことを、見てわからないのか?」「関係ない。出せるだろう」「勝手に座ったヤツがいうことかよ」椅子を下ろしたカウンターの席に座って、我が物顔で居座る。厚顔無恥とはこのことだ。オマケに、こんな朝早くに来たことなど、一度もない。
「明日死ぬとか、馬鹿げたことをいうんじゃないだろうな?」
 試しに鎌をかけてみる。すると、桜屋敷が「はぁ?」と顔を歪めた。片眉で顰め、もう片方の眉を吊り上げて聞き返してくる。
「阿呆か。俺にはやり残したことがある。そう易々と死ねるか」
「そうか」
『マスターの通行に命を脅かすものはありません』
「ふふっ。そうか、カーラは心配性だな」
「機械にデレてんじゃねぇよ。気持ち悪ぃ」
 ボソッと南城が呟く。その瞬間、ギロリと桜屋敷の目尻が吊り上がった。
「機械じゃない!! カーラだ!」
 即座に噛み付いた。激怒した桜屋敷に触発されて、南城も怒る。
「どっちにしろ板に女の名前を付けているだろ! 理解できないぜ。まったく」
「目に付く女に声をかけるタラシゴリラよりはマシだ」
「そんなんじゃモテないぜ。陰険眼鏡」
「モテる。俺のサイン会に群がる女たちを見たことがないのか。低能ゴリラは、これだから困る」
「どうせ顔だけで釣っているんだろ! お前の本性を見たら、どの女も手の平を返すと思うぜ」
「一部だけだろう」
「どこから来るんだよ。その自信は」
「あぁいう手合いは、めげずに付いてくる」
「あー、はいはい。そうかよ。まったく理解できないね」
「誰彼構わず取っ替え引っ替え声をかける方がどうかしている」
「取っ替え引っ替えじゃない。俺とシニョリーナたちは、そのとき出会った時間を楽しんでいるんだ」
「最低なヤツの言い分だな。とにかく、とっとと出せ。お前と話しているだけで喉が渇く」
「朝からワインは出さないぞ」
「当然だ」
 会話に疲れたように、桜屋敷は息を吐く。背中の芯を抜くように、ゆっくりと背凭れに背中を預けた。この打ち切りを見た南城は、片手を振って厨房に戻った。「お前にいわれるでもなく、こっちもだ」とぞんざいに背中で語る。その態度に「フンッ」と桜屋敷は鼻を鳴らした。まだ開店もしていない〝Sia la luce〟で、桜屋敷は足を休める。ボーッと天井を見上げれば、電灯も付いていない。仕込みのときは、厨房だけらしい。突然の来客は昼以降にしか受け付けないとの意思表示だ。(フンッ)これに桜屋敷は、二度目をした。カチャカチャと音が鳴る。グラスを出した音だ。シュパッと密封が解かれ、気泡が外気へ溢れる音が聞こえる。トクトクと音がしても、気泡の誕生は止まない。南城がホールへ戻った。桜屋敷の前に、飲み物の入ったグラスを置く。
 その正体を見て、桜屋敷は眉を顰めた。シュワッとグラスの中で泡が弾ける。
「なんだ、これは」
「サイダー」
「見ればわかる。俺がいったのは、どうしてこれを出したかということだッ!!
「ネチネチうるせぇなぁ! 重箱隅突きピンク!! 余っていたのがそれだからだよ。賞味期限も近かったしな」
「チッ! 低能ゴリラが。だが、まぁ保管状態は原始人の知能から脱したと褒めてやろう」
「お前、俺を馬鹿にしているだろ」
「しているが?」
「このッ」
 ジロリ、と鋭い目で桜屋敷を睨む。視線で文句を伝える南城を無視して、桜屋敷はグラスの中身を飲んだ。中々に、質は選んでいる。甘い。単品だけで出せる分だろう。注文を想定する客層は、女性か。喉の奥でも、二酸化炭素は弾け飛ぶ。
 グラス一杯分のサイダーを飲み終えたあと、カウンターを発った。
「邪魔したな。また後で来る」
「そのときは金を払えよ。守銭奴眼鏡」
「接待ならば向こうが払う」
「そういう意味じゃねぇよ」
 素で言い切る桜屋敷に、南城が呆れる。そろそろ戻らなければ不味い。桜屋敷は家へ帰った。南城もまた、犬猿の仲である幼馴染が帰ったことを見て、仕事に戻る。
 桜屋敷が使ったグラスは、綺麗に洗って片付けておいた。