12:00
スーツケースで提示された額に、桜屋敷はニッコリする。いいや、開いた扇子の下で口角を上げた。「商談成立ですね」対面での依頼の打ち合わせは、本日で二件目だ。大口の客は深々と頭を下げて「では、先生。よろしくお願いします」と告げて桜屋敷の書庵を見た。桜屋敷の書庵──桜屋敷書庵は、大きな一軒家である。沖縄の二月になると春の桜が花を咲かせ、一足早い春の訪れを感じさせる。庭の手入れも手を抜いてなく、専門の業者を呼んで整えさせていた。大まかな外見は大和文化の歴史が根付いた家屋だが、よくよく詳細を見れば違う。きちんと琉球の文化に根付いた家屋の造りをしていた。シーサーや木製の面格子が良い例である。沖縄文化の守り神以外には、きちんと自分をイメージさせる【桜】の装飾や飾り彫りなどを欠かさなかった。
さて、打ち合わせが終わっても仕事はまだある。本日は夕方から書道教室があった。それから、接待の予定も入っていた。やることがたくさんである。『マスター、あと二十三分で仮眠の予定に入ります』優秀な愛機カーラが、桜屋敷に告げる。所有者であり創造主の健康を気遣う人工知能に「あぁ」と短く答えた。一般的に流通している人工知能と違い、そこまで頭は堅くない。桜屋敷が日頃からメンテナンスをしているだけあって、実に柔軟な思考をしていた。人間に引けを取らない。所有者の動きや思考を感知し、数千数百数十個の脳細胞に匹敵する思考ルートを使って、カーラは適切な答えを出した。今はマスターの要求を待つのみである。優秀な計算能力で膨大な演算を出し切った人工知能は、そう結論付けた。それが桜屋敷にとって、最良の結果となる。
一足早く準備を一段落させた桜屋敷が、使っていない部屋へ入る。作品も飾っていない。急を要したときに使う私室だ。無論、緊急時に備えてカーラをメンテナンスできるだけのスペックを兼ね揃えたパソコンもある。
そこの押し入れを開けて、来客用の布団を出した。といっても、自分かボードのカーラが使うだけである。畳の上に敷いて、桜屋敷は布団に潜り込んだ。仮眠であるので、枕は出さない。
「カーラ、十分後にアラームとスヌーズを頼む」
『オーケー。マスター』
寝付きに関しては、誰よりも引けを取らない。すぅ、と桜屋敷は寝に入った。急な来客がなければ、起きもしない。目を閉じた桜屋敷は、短時間の睡眠に入った。さて、この間に優秀な人工知能はどうするか? 不思議なことに、どうすれば創造主の負担を減らせるかと考え始める。バングルに搭載したバッテリーの電力を低く抑えながら、スリープ状態の下で高度な計算を始める。置き型の媒体で補助をすることは? それだと距離が遠すぎる。マスターがそう望まない限りは現状の媒体が望ましい。マスターが起きたら次はなにをする? 多忙な用件を片付ける。高速で行われる演算の中で、優秀な人工知能は今後の予定を確認した。しまった、以前に寄稿を依頼した出版社から同様の依頼を頼む傾向が強く出ている。パッと市場の調査を終えた。
バングルと接する桜屋敷の手首が、ほんの少しだけ熱を持つ。所有者は眉を顰めたが、睡眠を続行した。なにせ、オーバーヒートを起こさないよう調整してある。カーラが故障しないように、ある程度の制御も利かせていた。排熱も完璧に施してある。であるので、桜屋敷が手首に感じた熱は気のせいだ。あるとすれば、一定部位に継続的に感じた痛みへの熱さである。
寝返りを打つ。バングルが畳から離れ、布団の上へ移動した。マスターの心拍数と呼吸回数を数え、カーラは熟睡していると判断した。枝分かれした可能性が潰れ、一つの未来に行き着く。一度のアラームで目覚めるという未来はない。別れるのだ。今回の仮眠では、二度寝、三度寝と繰り返す。
カーラはスケジュールを立て直し、当初通りに実行することを決めた。寝惚けた桜屋敷が仮眠の延長を告げる。人工知能はアラームをやめて、主人同様アラームが鳴るまで休む。
文字通り、スリープモードへ移行したのであった。
続きを読む